自分を死なせるとか物騒なこと書いて申し訳ない⑥[186/1000]

トマト、胡瓜、ナスのような夏野菜は身体を冷やす作用があることから陰性だと言われ、かぼちゃ、蓮根、ごぼうなどの冬野菜は身体を温める作用から陽性だと言われる。季節の野菜を食べることで肉体は環境に順応できるようになっている。

おもしろいのは、陰性の野菜も熱を加えれば、陽性を帯びて身体を温めてくれるようになることだ。この自然法則はいたるところにある。

 

性質を反転させてしまうものに積極性がある。積極性には熱がある。自分を弱めるとされるものでも、熱を帯びると、自分を強くするものに変わる。”食えない”は栄養失調になるが、”食わない”は健康になる。”水に濡れてしまう”では風邪をひくが”水を浴びにいく”では身体を温める。断食も行水も、行為上は同じことをしていても、その内側に積極性(熱)を帯びているか否かで、行為の性質は真逆なものになる。

 

他にも、真冬に同居人に布団をはぎ取られれば、身も心も縮こまってしまうが、自分から布団を蹴り上げれば清々しい気持ちになる。学業も仕事もやらされるものは苦痛だが、自分からやるものは信念となる。家のない生活も、それを強いられるのか、自分からするのかでは、気高くも惨めにもなる。1時間何もせずぼうっと座れば退屈に耐え切れなくなるが、積極的に呼吸を観察しに行けばあっという間に過ぎる。

積極性一つで、自分を強くも弱くもする。おもしろくもつまらなくもする。気高くも惨めにもする。今日のすべての行為は心の向き一つで性質は反転する。あらゆる悩みは表面上の行為の問題はなく心の向きで解決するように思う。中村天風が教えている絶対積極の精神はこのことを言っている。

 

この究極が”積極的な死”だと思う。むろんそれが武士の切腹であったことは言うまでもない。自分から死に向かうなど、肉体がすべてとなった人間から見れば到底理解できない行為であるが、積極的な死は、自分で自分の物語を終わらせる唯一の手段である。”物語を誰か(何か)に終えさせられる”と”物語を自分で終える”では人生の完遂度は変わる。切腹には死の一点を付与することで、人生を完成させる美学があり、その瞬間を迎えられることは最高の名誉だった。

 

今日は、どういう死に方をするか分からない。病気で死ぬのか、事故に巻き込まれて死ぬのか、天災で死ぬのか、熊に襲われて死ぬのか、冬山で凍えて死ぬのか、崖から落っこちて死ぬのか。死はいつ訪れるかも分からず、今日死ぬ可能性だってある。

不確定に訪れる死は消極的なもの。消極的な不確定な死に積極性を帯びさせるには、やはり今日死んでもいいように今日を生きるしかないのだと思う。あらかじめ自分を死なせて法を身として生きることは、いわずもがな積極性を帯びる助けになると信じる。

 

「人間一生誠に僅かのことなり」の葉隠の言葉のように、長くてもたかが100年の人生だ。歳を重ねることに気に病んでる場合ではないぞ。そんな消極的なことでは惨めになるぞ。歳を重ねることは死に近づいた喜びとせよ。あと70年、天寿をまっとうするか、その前に死ぬのか。いずれにせよ、積極的な死の中でこの人間を終えられたら、なんとも名誉に思う。

 

精神修養 #97 (2h/202h)

何をもって死身となったと言えるのか。いくら朝夕瞑想をしても、日常で決断を迫られたとき、迷うことなく死を選べなければ意味がない。瞑想は死身となる手段であり、目的は死を選ぶ主体の作用にあることを忘れてはならない。

では瞑想がまったく意味がないかと言われると、そんなことはなく、小さく死ぬ練習になっていることは実感する。瞑想を始めたころ、瞑想によって1日に輪郭が生まれた感覚があった。これは瞑想が死に光を当てることで、生と死の輪郭がはっきりしたからだと言える。

命は生と死を繰り返しながら燃えていく。死が際立てば、輪郭が生まれ、生と死のリズムが心地よく刻まれていく。

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