善のふりをした悪/一人静かに座っていることの価値[167/1000]

善のフリをした悪というものは、この世に多く存在しているように思う。

(何が善で、何が悪かを論じられる人間ではないので、今日のところは昨日書いたように、自我の膨張作用を悪とし、法を身に纏う力を善としたい)

人間が生まれ持った自我の膨張作用を、性悪説のいわれとするとするなら、人間が法を身に纏う力を持って生まれたことこそ、性善説のいわれではないか。

・宇宙の法を重んじて生きる人間の純粋さに本当の誇りがある[166/1000]

 

昨日につづき、今朝の瞑想も、天と繋がることを放棄し、どれだけ考えないように努めても、仕事のことを考えてしまう。仕事のことを考える間は、いかにも自分が働き者であるかのようで、いい考えが思い浮かぶものなら、有意義な時間を過ごしたような気持ちになる。瞑想には集中できなかったが、いい時間が過ごせた…..と「自分」は考える。

 

しかし、自分にこだわりすぎているという点では、善のフリをした悪だ。いいことを考える間は気持ちがいい。しかしこれは、悪いことを考えて嫌な気持ちになることと、コインの表裏の関係でしかない。

表面を見れば、生産的なものとそうでないもの違いはある。しかし、天との繋がりを考えれば、どちらも現世的などんぐりの背比べにすぎない。予め決めた法を破り、自分にこだわることを優先すれば、どちらも自分を肥大化させる。

 

もう1つ。キリスト教の安息日の考え方を知ってから、日曜日はなるべく働かないように努めることにした。ご飯を作ることも労働の1つとみなし、日曜は外で食事をするか、何も食べないことを選択する。

月から土までは、1日1食だけ、玄米2合を野菜と一緒に炊く。料理の手間はほとんどなく、5分もあれば調理はできてしまう。しかし簡単ゆえ、このくらいの労働であればいいだろうと、安息日の掟を破り、ご飯を作ろうとする自分があらわれる。

これも善のふりをした悪だと感じている。質素倹約のふりをしているが、それが自分にこだわるものであれば、本質は前の例と同じである。

 

 

何もしなければ悪いことをしているような気持ちになる。じっとしていることが、不安となり、ついには耐えきれず何かに手をつけてしまう。しかし、何もしないと決めたなら、何もしないまま貫き通すことの方が自律的である。

善のふりをした悪とは、「自分」に耐え切ることができないことに通じている。じっとできず、その裏側で自分を誤魔化している。

 

今日書いたことは、一人静かに座ることの価値に通ずる。

 

呼吸をただ感じていればよろしい。痛みをただ感じていればよろしい。

苦しくても、悲しくても、寂しくても、焦っていても、何事でもないように、ただその中に浸っていればよろしい。

 

精神修養 #77 (2h/162h)

俗世の考え事から抜け出せず、自分という存在に引っ張られたまま、自分の輪郭を掴みきれなかった心地悪さが残る。

自己は膨張作用が常に働き、肥大化すると同時に、中心には重力のようなものも働いていると思う。意識のすべてを中心に引き寄せ、自分中心に物事を考え、自分中心に都合よく世界を歪めてしまう。今朝は、重力があまりにも大きく、輪郭を掴みたくても、自分から抜け出せない感覚があった。

自我には膨張作用が働いていることに加え、重力の働きもある。

 

[夕の瞑想]

今朝につづき、我の求心力に引き込まれ、輪郭を掴むことができない。我に飲み込まれているときには、天と繋がる感覚がない。天との繋がりを渇望することもまた自我であり、これに連鎖するように沼にはまってしまった。

考えることでは対処できず、最後には、意識と無意識の狭間にある呼吸だけがアンカーとなる。呼吸をただ感じていよう。痛みをただ感じていよう。

 

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