エネルギーは善、無気力は悪[485/1000]

青年を象徴するものには、恋や情熱がある。恋や情熱が失われたときに青春は終わる。

時代の道徳によって善悪は変わる。封建的な主従関係も武士の切腹も、現代では受け入れられるものではない。男性性は追い出された。しかし、生命の話をすれば、エネルギーは善で、無気力は悪だと言えるのではなかろうか。私はエネルギーを賛美する。それが時代の道徳に及ぼす、振れ幅については、運命が責任を取るしかない。

 

この恋と情熱のエネルギーとは、絡まりあった関係にある。恋は忍ぶほど、内で膨らんで力を与えてくれる。情熱とはなんだ。私はエネルギーを賛美しながらも、教員を辞めて以後、今日はまで失われた情熱とエネルギーの在り処を探しつづけている。

陰陽の神秘の下、気功も試した。怠慢もそこそこに、労働もした。毎日2時間の瞑想を200日以上つづけた。たしかに、束の間元気になった。しかし、欲していたエネルギーとは、そういうものではない。もっと深い、魂から湧き出るようなエネルギー、恋と情熱のエネルギー、これを渇望していた。

 

現代の若い人たちは、恋愛の機会も、性愛の機会も、かつての時代とは比べものにならぬほど豊富に恵まれている。しかし、同時に現代の若い人たちの心の中にひどむのは恋愛というものの死である。もし、心の中に生まれた恋愛が一直線に進み、獲得され、その瞬間に死ぬという経過を何度も繰り返していると、現代独特の恋愛不感症と情熱の死が起こるのは目に見えている。

三島由紀夫,「葉隠入門」

 

今日のところは、2つの結論に着地したい。

一つは、恋と情熱が死ぬのは時間の問題で、青春を終えることは、どんな人間にも年齢と訪れる老いの悲劇である。

もう一つは、内に秘め続けるものがあるかぎり、恋も情熱も死ぬまでつづく。その代わり、恋を打ち明けることなく、死んでいくほどの覚悟が必要である。

 

【書物の海 #15】葉隠入門, 三島由紀夫(新潮文庫)

恋の至極は忍恋と見立て候。逢いてからは恋のたけが低し、一生忍んで思い死する事こそ、恋の本意なれ。

(略)

それまで市井の平凡な、家族や金にからまれたみじめな男女であった二人は、一途の恋に心中への道をたどるときに、たちまち悲劇のヒーローとヒロインとしての、巨人的な身の丈を獲得するのである。

 

いまの恋愛はピグミーの恋になってしまった。恋はみな背が低くなり、忍ぶことが少なければ少ないほど恋愛はイメージの広がりを失い、障害を乗り越える勇気を失い、社会の道徳を変革する革命的情熱を失い、その内包する象徴的意味を失い、また同時に獲得の喜びを失い、獲得できぬことの悲しみを失い、人間の感情の広い振幅を失い、対象の美化を失い、対象をも無限に低めてしまった。恋は相対的なものであるから、相手の背丈が低まれば、こちらの背丈も低まる。

 

エネルギー保存の法則。300日前にも同じことを書いた。私は宇宙より授かる、恋のエネルギーを、毎日草枕月記に注ぎ込んでいる。本当は忍ばれるべきものであるにちがいないが、今とは比べものにならないほどの孤独に耐えられる力があるのかもわからない。しかし。そうした忍耐力がなければ、エネルギーは醸成され高まっていかないものではないか。

恋愛不感症という言葉が出たが、現代人に失われた習慣があるとすれば、深い晩に独り、月を見上げることではなかろうか。私は恋と情熱を、エネルギーを賛美する。

 

2023.10.18

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