私たちは毎日儚く移ろい続ける美しい存在であると忘れてはいけない[62/1000]

長野は菅平高原にいる。高所合宿にきた身体のごっついラグビー部の大学生が、朝からランニングをしている。

 

朝から、チームメイトと一緒に走れるなんて、お前たちは1人じゃないんだなと、少しうらやましくなる。

しかし彼らから見れば、高原で朝から1人、ラジオ体操をする私は、のびのびと自由に見えたに違いない。

 

人がしていることの形だけを見て、都合よく相手が幸せかどうかを判断するのは、人の悪い癖だ。

私は、軽バンで暮らしていると、「バンライフですかぁ、いいですね~!」とよく話しかけられる。しかし、私はいつもきっとこういう人は、自分勝手に華やかな世界を想像し、その想像に勝手に浸っているだけなんだろうなぁという印象を受ける。

 

現に私は、玄米に味噌と梅干しを食事とした、質素な食で慎ましくやってるだけなのだ。お洒落なバケットや、ホットサンドなんて、1度も食べたことがない。

自分勝手に人の世界を想像し、勝手に意見を述べるなんてことは、私たちは日常的についやってしまうことなのかもしれない。しかし、それは傍から見たらとても愚かで、いかに世界を捻じ曲げて、自分の見たい世界を、都合よく見ようとしているかがわかる。

 

 

この癖の質が悪いのは、自分が弱っているときほど、人の幸せばかりを見て、自分の不幸さを浮き彫りにすること。

そして、人の良い部分と、自分の悪い部分ばかりを過大評価し、人の悪い部分と自分の良い部分は、過小評価するということだ。

 

これを全部、勝手な想像の中でやってしまうのだから、認知の歪みといのは恐ろしい。

 

たった1つ、私たちにできることは、現実を見ようとすることだと思う。相手の話を聞くことだと思う。

人の話をそのまま聞くと、自分勝手な幻想はボロボロと崩れていき、「なんだ、この人も意外と大変なんだな」という苦労も見えてくる。

 

「比較」は砂糖のようなもので、百害あって一利なしだ。ネットで比較をしてしまうときは、距離を置こう。

それから、規律を正して、ちゃんとここにある現実を生きよう。今この瞬間を生きようとすれば、今ここにある世界をちゃんと見ようとできる。今を見ているときは、勝手な幻想は起こらない。

 

私は今日、朝から頭が痛く、なんだか39度の熱を出して以来、身体の調子がずっと変だなぁと感じている。

朝飲んだコーヒーは、とても不味く感じた。自分で炊いた玄米も、どこかモサモサしていて美味しくない。頭はずっとクラクラしていて、いつも何かが頭の中につっかえているような変な感覚がある。世界は寒くて、なんだか秋になってしまったように感じる。

 

「はやく以前のように元気になりたい・・・」と書きながら、もう以前の自分にはなれないのだとも思った。

以前のようになんてのも、幻想だ。以前のように元気になれたとしても、その自分は、そのときの自分であって、以前の自分ではない。

 

人はいつも、今ここにしか、存在しない。

ここにいる今の自分が、存在する自分のすべてだ。

 

そう思うと、少し寂しくなる。

朝から上裸で潮風を浴びながら、コーヒーをうまいうまいと言いながら飲み、大好きな玄米を、茶碗5杯も食べていた元気もりもりの私は、今ここにはもういないのだ。

 

 

世界の季節が移ろう様子を見て、私たちは美しさや、儚さをおぼえるが、私たち自身もまた毎日、美しく、そして儚く移ろい続けていることを忘れてはいけない。

この夏、ここに存在した私たちは、この夏だけの私たちだ。来年も夏は、同じように訪れるかもしれないが、同じ夏は二度と訪れない。

 

今日、ここに存在する私たちも、今日だけの私たちだ。

少しずつ季節の移ろいを見せる自然と同じように、今日の自分は、そんな美しさの中にいることを忘れてはいけない。

 

 

私は以前と同じように元気にはなれないが、また玄米を茶碗5杯、モリモリと食べられるくらいには、元気でいたいなと思う。

でも、今日の私は、今日の私のなので、今の状態をそのままベストとして、今日を生きさせていただこう。

 

毎日、この瞬間も、自分は美しく移ろいでいるということを、忘れないで・・・・・

今日も最高の私たちを生きましょう!

 

じゃ、また明日ね。see you tomorrow!

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