縄で肉体は縛れても、魂までもは誰も縛りつけることができない[171/1000]

「二つ二つの場にて早く死ぬ方に片付くばかりなり。」毎朝この言葉から1日が始まる。

 

世界はすっかり冬に染まり、明け方は氷点下になることも増えてきた。まだ外も暗い中、寝袋から抜け出すことにも勇気がいる。そんな時、寝袋の未練をズバッと断ち切り、温もりから飛び出すことができるのは「二つ二つの場にて早く死ぬ方に片付くばかりなり」という葉隠の一句が頭に唱えられるからだった。

この一句は、DEAD OR ALIVEの選択を迫られたときに、死を選べという葉隠の中枢を貫く、大きな教えである。肉体は生きる方向に向かおうとするから、ALIVEに理由がつきやすい。最も典型的な文句は、「今日だけは…、今回だけは…」と今この瞬間を特別扱いし、例外を設けてしまうことだろう。

葉隠は肉体が生きようとする性質を熟知している。判断の局面に直面した場合は、迷わず死ぬ方を選べば間違いないと言い切っている。この実践は簡単ではないことは承知である。

 

小さなことだが、冬の朝はいちばんにDEAD OR ALIVEの局面が訪れる。布団の温もりに未練を残しながら、凍えるように布団から抜け出すのは耐えがたい苦痛であるが、死を選ぶ覚悟で勢いよく布団から抜け出せば、その後は何とも清々しい。

行水に似ていると思った。雨に濡れて身体が冷えれば風邪をひくが、自ら冷水を浴びに行けば、同じ水に当たるという行為でも、身体は温まろうとして強くなる。冬の朝も同じだ。寒さも浴びるように立ち向かっていけば、つまらない悩みも、臆病風も吹き飛んで、頭がどんどん冴えて強くなる。

 

「毎朝毎夕、改めては死に改めては死に常住死身となる」という一句も葉隠にある。死身となるとは、「自分の肉体」として生きることから離れ「魂の器」として生きることを意味するのだと思う。今朝はそんな感覚だった。寒さに立ち向かっても、寒さが消えるわけではなく、全身は凍え、顔は冷たく、指先も痛い。しかしこれは自分ものというより、器のものであるのだ。器のものであると知るから、魂と肉体の拮抗作用が生まれ、鍛錬される。

 

死身となること、死を選ぶことは、魂の器として生きること。これは死んでいるけど、生きているという矛盾した状態ともいえる。また、肉体の不自由から抜け出し、真の自由を手にした状態だともいえるかもしれない。死を自ら選ぶ武士の切腹が、究極の自由意志だといわれたのはこのことを指しているように思う。

縄をつかって人の肉体を拘束することができても、魂までもは誰も縛り付けることができないのだ。きっと真の自由とは、そんな感覚なんじゃないかな。

今はもしかしたら、肉体が自由になり過ぎた代償に、魂は不自由になっているのかもしれない。魂に近づける瞬間は、いつも1時間じっと座禅を組み、肉体を縛り付けるときにあるから。

 

有難いことにまだまだ冬は続く。毎朝毎朝、寒さを浴びにいこう。朝からすべてを吹き飛ばそう。空腹と同じように寒さで、魂の野性は蘇る。

 

精神修養 #81 (2h/170h)

・忍耐とは、肉体に蓄積したエネルギーが水平方向に爆発しようとするのを、法によって制することである。忍耐のときに苦しいと感じるのは、魂と肉体が拮抗作用を起こしているからである。垂直方向と水平方向のエネルギーがぶつかり合っているからである。

・エネルギーが内に留まる状態は一種の緊張状態となる。肉体は緊張状態を嫌い、外へ外へ追い出そうとする。日記を書くと心がスッキリするのも、人と話すとモヤモヤがなくなるのも、エネルギーが解放され、緊張状態が解除されるからだろう。

・感謝の気持ちに涙を流せば、エネルギーは外へ散っていく。ありがとうと口にすれば、エネルギーは外へ散っていく。それは大切なことであるかもしれないが、グッと堪えることにより、エネルギーは凝縮し、行動となって恩返しとなるのではないか。思いを胸の内に秘めることによって生まれる義理堅さがある。涙を流すことの美しさもあるが、涙をこらえることで負える尊い責任もある。

・恋のエネルギーは振動数が多く、忍ぶことによって振幅は大きくなるのだと思う。恋ができるのは対象と二人きりの状態だと思う。自分の孤独を前提とする。冬ほど孤独になれる季節はなく、もしかしたら冬とは恋の季節ともいえるかもしれない。生きる理由に迷うことはあるが、生きる理由など恋だけで十分だろう。

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