世界が壊れることよりも自分が無くなることのほうが怖かった[173/1000]

生きている実感に焦がれるが、本当はそんなものはない。あるのは生きている実感ではなく、生き返る実感だけ。生きる一点に留まることは不可能で、常に生と死を行ったり来たりしている。緊張と緩和を繰り返し、絶望と希望を得る。

生き返るためには、一度死ななくちゃならない。死なせてくれる人が本当に優しい人で、死なせてくれる場所が本当に優しい場所だと思う。物質主義の世界は、生きる方向ばかりに向かおうとするが、その先に命の震えはあるのか。

 

幸せも不幸も、エネルギーである以上は波であって、うねりの中を突き切ることで命は燃焼していく。幸せだとか、不幸だとか、本当はどっちでもよく、肝心なことは自分が波の一部となり、幸せも不幸も内側から喰らい尽くすこと。

同じように、生きている実感というのも、正確には、生と死を行き来することで生まれるものだと思う。過去に”生きている”と最も実感できた時は、いつも死地から生還した英雄のようだった。生還した反動が、全身を振わすことで生きていることを最高に実感した。

 

オーストラリアの国立公園の山奥で野宿をしたときも、寝ていたらハリネズミのような動物がすぐ横をとおって、その後も怖い思いが続き、死を感じていた。しかし、東の空から太陽が顔を出したときは、生き延びた嬉しさにただ震えた。マイナス10度の小淵沢の森でテント生活は孤独であったが、訪客と一緒に囲う焚火や温かいトマト鍋には、生々しい命を感じた。

 

日々、小さく死んで、小さく生き返っている。仕事で疲れ果て晩酌で生き返るオヤジもいる。部活で疲弊し帰りに炭酸水で生き返る高校生もいる。苦悩の中、言葉や音楽で生き返る人もいる。生きている実感は、単独では存在せず、いつも死を前提とする。生きたければ向かうべき方向は、生ではなく死である。生きる道は、死ぬ方にある。

 

武士道とは死ぬことと見つけたり。二つ二つの場にて、早く死ぬ方に片付くばかりなり。別に仔細なし。胸すわって進むなり。

葉隠の中枢を貫く、この言葉を思い出す。引きこもりの鬱だった頃、死にきれず生き切れないという屍になった苦しみに苛まれた。だから、死に向かえと力強く背中を押しもらえるこの言葉には本物の優しさを感じる。

当時は、隕石が落ちて世界が滅茶苦茶にならないと、自分は元には戻れないと思っていた。不謹慎でも、天災に巻き込まれて、死ぬ思いをしなければ一生息を吹き返すことができない気がしていた。

世界が壊れることよりも、自分が無くなってしまうことのほうがずっと怖かった。死ねなければ、生きることもできず、存在自体がなくなる。

 

楽をする付き合いは多くある。しかし共に死ねる関係は稀だ。そんな関係は友を超えて戦友となる。

壁が分厚くて機密性の高い部屋にいると身は守られる。しかし壁が薄くて自然に晒されている小屋のほうが生きてる感触はある。

 

死と生を無限に繰り返しながら生きている。幸せと不幸の波のうねりを突き抜けることが命を燃やすことと同じで、壮大な生と死を繰り返す中に、命は大きく燃え上がるのだと思う。

 

精神修養 #83 (2h/174h)

・生きる理由なんて恋だけでいい(2度目)

・山本常朝のいう人生が「夢の間」というのは、どれだけ年齢を重ねても青春であること。人生に恋をすること。

・自分が好きだとか嫌いだとか、どちらも自惚れ。

・生の実感は、生きるときではなく”生き返るとき”に訪れる。生も死も、振り子のように動き続ける以上、生に留まることなどできない。

・もう一度生き返るためには、一度死ななければならない。何度も死ななければならない。そしたら何度も蘇る。

・他人は自分の顔を見れても、自分は自分の顔を見ることができない。自分のことを赦せず、人のことを赦せるのはきっとそういうこと。

・一緒に楽になろうというより、一緒に苦しもうといいたい。楽は迎合するものではなく、苦しんだ末に自然に訪れるもの。

・本当に後悔することは死にきれず命を燃やせなかったこと。すべてここに通ずる。

・必死に生きようとするこの器を見るとき、なんとも健気だと感じる。

【0円で生きていける拠点づくり】

森の中に瞑想小屋を建て、家を開放するのが直近にやりたいことです。

詳細はこちら

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です