自分を赦すことができるのは自分以外の存在だけ。[172/1000]

罪悪感を抱えながら、日々生きている。

怠ければ罪の意識に襲われる。行き過ぎた暮らしをすれば罪の意識に襲われる。言葉に不純さが見つかれば罪の意識に襲われる。不誠実であれば罪の意識に襲われる。

 

今は家がなくて、寒さの中、車で寝起きしているが、十分すぎる生活だと感じる。毎日1食、玄米とがぼちゃとしめじと味噌汁を作って食べているが、十分すぎる食事だと感じる。おやつに黒糖のかりんとうとコーヒーをいただくものなら、贅沢すぎると感じる。

分相応という言葉のとおり、身の丈にあう生活が存在し、それを超えれば罪の意識が生まれる。一体どれが、本当の身の丈なのかは分からない。

 

罪の意識を誰が赦すかということに、散々苦しめられている世の中に思う。自分で自分を赦すことのできない人間は、罪の意識を抱えたまま、誰かに赦してもらう瞬間を焦がれ、後ろめたさを隠して生きている。ある人は神に、ある人は音楽や絵画に、ある人は夫や妻に、ある人は友人の言葉に、ある人は大きな海や空や大地や木に、赦しを得る。

共通するのは愛で、いつも愛の優しさと厳しさが罪の意識を溶かし、時にはえぐり取っていく。愛が渇望される世の中ほど、やり場を失った罪の意識が蔓延しているのかもしれない。

 

自分で自分を赦すことができない人間は、未熟であるかのように扱われるが、本当は自分で自分の罪を赦さない人間ほど、純粋なのだと思う。キリスト教に「われらに罪を犯す者をわれらが赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ」という言葉がある。他人を赦すことも、自分が赦されることもあっても、自分が自分を赦すことはない。自分では赦せず、誰かに赦してもらうしかないのが、人間の不完全さだと思う。

罪の意識に耐え切れず、誤魔化すように罪を重ね、膨れ上がった罪の重みにどうしようもなくなる人間もいるが、罪をあがなう方法を知らないだけではないだろうか。私自身、今も罪をあがなう方法は知らないが、やり場を失った罪悪感に、とことん堕ちていった。

 

「こうあるべきだ」を手放すことで楽になると言う人間もいる。しかし手放しちゃいけない「べき」もある。怠ける自分を叩くとか、努め励むことを自分に課すとか、そういう「べき」は武士道のような先祖たちが築いてきた大きな文化を礎としている。その文化の礎が、今日の我々にも備わっている。この美徳の上に「べき」がある。道を外さないために「べき」がある。

文化から切り離されて、個人の感情の問題として捉えられるとき、「べき」は足枷でしかなくなる。手放せば楽になるという考えが生まれるのは、文化から切り離されているからだ。贖罪の方法が分からなくて、罪を背負うことそのものを「べき」を排除することで無くそうとしている。

 

罪の意識を失えば、人間の文化も失われる気がする。罪の意識からは解放されて楽になっても、罪の重みを失った人生は軽すぎる。自分で自分を赦すことができず、誰かに赦しを求めなければ、潰れてしまうのが人間の弱さでありながら美しさなのだと思う。

自分を赦すことができるのは、自分以外の存在だ。救いはいつも愛の中にある。

 

精神修養 #82 (2h/172h)

罪悪感を感じやすい人間と、そうでない人間がいる。自分のことを赦せる人間と、そうでない人間がいる。罪悪感を感じやすく、自分のことを赦せない人間は、罪の意識に苛まれやすい。自分のことを赦せない人間は、赦せる人間に比べ、未熟だとみなされる。しかし見方を変えれば、人間の不完全を弁えているともいえる。主を持たない現代人は、赦しを得られず、罪悪感に苛まれ続けることも少なくない。これは現代人の宿命だと思う。

法を宿す人間ほど、罪悪感を得やすい。道から逸れれば、法によって裁かれる。罪とは何なのだろう。なぜ罪の意識を感じてしまうのだろう。自分で自分を赦すことのできない私は、罪の赦しをどこに求めればいいのだろう。やり場が分からなくて、過去に自滅してきた。

現代人の宿命を感じている。罪を罪のまま認められる瞑想。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です