傷つくことはよくても恥をかかせることを魂は望まない。[174/1000]

「不仕合わせのときにくたぶるる者は益に立たざるなり」

今がそんな状態にある。不仕合わせで、自分が役に立たずで、くたびれている。自分が大事になり過ぎた結果、生まれたのは迎合と惨めさと恥だった。天に仕えることも、天に合わさることも、自分が大きくなるほどに遠ざかっていくのだと痛感している。

日々瞑想を行って、自分を制することを行う現世的な理由は、ここにあった。死ぬのが怖くなって無様に生きながらえても、耐えがたい恥ずかしめを受けるだけなのだ。この恥辱こそが、魂への冒涜に感じるから、自分を制して肉体の死を選べと言っているのだ。

 

日々、規律を守ることや自分で決めたことを守ること(時には禁欲的になること)は、自分を虐めるためにやっているのではない。あまりに質素すぎれば、もっと自分(肉体)を大事にしてやってもいいんじゃないか?と同情心もわきたくなるが、本当に大事にしたいものは器ではなく、もっと根源的なものにある。

傷つくことと、恥辱をうけることは、どちらも不快な感覚であるけれど、性質は別物だと感じる。死に向かった先にあるのが傷で、生に向かった先にあるのが恥。そういう意味で、日々傷つくことは、死に向かおうとする勇の証だから胸を張っていい。一方、友人や親、夫・妻や子供、恩師に顔を向けられない自分でいることのほうが、ずっと苦しく惨めなもの。

 

自分を律することの目的は、贅沢を嫌うことより、自分が大きくなり過ぎて、無様に生きながらえる恥を回避するためにある。新渡戸稲造が、武士道で「義」につづき「勇」を徳目に掲げているように、死ぬに必要は勇気か?と思ったが、肉体とはそもそも、生きよう生きようと、備えられた本能のままにある臆病なものではないか。それを乗り越えるために試練を与えるのが、魂の役目ではないか。

肉体が本能的に生きようとするものなら、魂は死なせようとするものかもしれない。

 

説教はもういい。小難しいをいくら考えても、あるのは魂の実践だけ。

葉隠の「毎朝毎夕、改めては死に改めては死に、常住死身となる」「二つ二つの場にて早く死ぬ方に片付くばかりなり」の息遣いを身体がおぼえるまで、仕合せと不仕合わせに苦しみながら、くたぶらずに、やっていくしかないのだ。

 

傷つくことは良くても恥をかかせることを魂は望まない。

 

精神修養 #84 (2h/176h)

昨晩、考え事がいつまでも止まず、2時間経っても3時間経っても眠れなかった。眠るために瞑想も試みるも、考えることに快感を感じるような肥大化した自分に手が付けられなかった。眠るために、聖人とよばれた村の教師、中江藤樹について読むと、謙虚で正直な魂の純粋さが、棘のような感覚でいつも以上に自分に突き刺さるのを感じていた。

 

今朝も嵐のように自分がうるさい。悪気はなくても、傲慢になっていると感じる。「ショーシャンクの空に」で、自分は更生したと言いきるも、何度も仮釈放会議でREJECTの刻印を押される無期懲役の男が登場する。

更生するとは、自分に法を纏うことを意味するのだと思う。刑務所で奉仕を行い、いくら自我を鎮めて更生したように見えても、法を纏うことがなく野放しになれば、簡単に膨張して再犯を繰り返すのが自我なのだと思う。

 

[夕の瞑想]

仕事に没入しすぎると、自分が大きくなりすぎる。人を受け入れることが難しくなる。自分を貫き通そうとする。人との軋轢に疲弊する自分が、生き返りたがっている。その圧力を体内に感じるとき「ああいま死んでるのだな」と認められて、少しは身体の感覚をそのまま受け入れられた気がした。

自分が大きくなるとき、魂が分離している感覚がある。あれだけ読んだ葉隠や武士道の魂も身から離れていく。不仕合わせになる。この状態は苦しい。不仕合わせのときにくたぶるものは益に立たざるなり。この言葉を思い出す。

天とのつながりが絶たれると、すべてを投げ出してしまいたくなる。不仕合わせなときこそ、信仰が試される。

 

【0円で生きていける拠点づくり】

森の中に瞑想小屋を建て、家を開放するのが直近にやりたいことです。

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