愛するということ。逃げずにぶつかるから、人と繋がれるんだ。[47/1000]

猛暑にやられそうになると思えば、天気は大荒れして、なかなか不安定な空模様ですが、

皆さま体調はいかがでしょうか?!

 

私は前日との天気に差分があると、気分に波が生まれやすいのですが、今日にかぎってはかんかん照りの太陽から逃げれてホッとしております!

 

そんな朝、昨日の自分があまりにもダサくて、朝から反省会をしております。(x回目)

 

ポンコツ人間のオレよ!よ~く肝に銘じておくんだぞ~!

つまらないと思うなら、自分で面白くしてみろ!

退屈する前に、自分から楽しんでみろ!

 

冷たいと思うなら、温かくしてみろ!

一人だと感じるなら、自分から手を取りに行ってみろ!

 

立ち止まるな。踏み込め!貰おうとするな、与えようとせよ!

待つな。自分から取りにいけ。自分で世界を変えてみろ!

 

そんな反省会の朝、エーリッヒ・フロムの「愛するということ」を読み返しています。

5年くらい前に買った本ですが、反省会モードの今に、ぴったりの本です。

 

今日はこちらをの一部を紹介します!

以下、エーリッヒ・フロム「愛するということ」の引用。

 

たいていの人は愛の問題を、 愛するという問題、愛する能力の問題としてではなく、 愛されるという問題として捉えている。つまり、人びとにとって重要なのは、どうすれば愛されるか、どうすれば愛される人間になれるか、ということなのだ。

 

愛は能動的な活動であり、受動的な感情ではない。そのなかに「落ちる」ものではなく、「みずから踏みこむ」ものである。愛の能動的な性格を、わかりやすい言い方で表現すれば、愛は何よりも与えることであり、もらうことではない、と言うことができよう。与えるとはどういうことか。この疑問にたいする答えは単純そうに思われるが、じつはきわめて曖昧で複雑である。いちばん広く浸透している誤解は、与えるとは、何かを「あきらめる」こと、剝ぎ取られること、犠牲にすること、という思いこみである。性格が、受け取り、利用し、貯めこむといった段階から抜け出していない人は、与えるという行為をそんなふうに受けとめている。

 

与えることはもらうよりも喜ばしい。それは剝ぎ取られるからではなく、与えるという行為が自分の生命力の表現だからである。

 

与えるという行為のもっとも重要な部分は、物質の世界にではなく、ひときわ人間的な領域にある。では、ここでは人は他人に、物質ではなく何を与えるのだろうか。自分自身を、自分のいちばん大切なものを、自分の生命を、与えるのだ。これは別に、他人のために自分の生命を犠牲にするという意味ではない。そうではなくて、自分のなかに息づいているものを与えるということである。自分の喜び、興味、理解、知識、ユーモア、悲しみなど、自分のなかに息づいているもののあらゆる表現を与えるのだ。

 

愛とは愛を生む力であり、愛せないということは愛を生むことができないということである。

 

愛するためには、性格が生産的な段階に達していなければならない。この段階に達した人は、依存心、ナルシシズム的な全能感、他人を利用しようとかなんでも貯めこもうという欲求をすでに克服し、自分のなかにある人間的な力を信じ、目標達成のためには自分の力に頼ろうという勇気を獲得している。これらの性質が欠けていると、自分自身を与えるのが怖く、したがって愛する勇気もない。

 

愛を達成するための基本条件は、ナルシシズムの克服である。ナルシシズム傾向のつよい人は、自分の内に存在するものだけを現実として経験する。外界の現象はそれ自体では意味をもたず、自分にとって有益か危険かという観点からのみ経験されるのだ。ナルシシズムの反対の極にあるのが客観性である。これは、人間や事物をありのままに見て、その客観的なイメージを、自分の欲望と恐怖によってつくりあげたイメージと区別する能力である。

 

愛の本質は、何かのために「働く」こと、「何かを育てる」ことにある。愛と労働は分かちがたいものである。人は、何かのために働いたらその何かを愛し、また、愛するもののために働くのである。

 

誰かを愛するとき、私はその人と一体感を味わうが、あくまでありのままのその人と一体化するのであって、その人を、私の自由になるような一個の対象にするわけではない。

 

自分自身にたいする関心を超越して、相手の立場にたってその人を見ることができたときにはじめて、その人を知ることができる。

 

愛とは、能動的に相手のなかへと入ってゆくことであり、その結合によって、相手の秘密を知りたいという欲望が満たされる。

 

愛の行為において、つまり自分自身を与え、相手のうちへと入ってゆく行為において、私は自分自身を、相手と自分の双方を、人間を、発見する。

 

自分が相手に関して抱いている非合理に歪んだイメージを克服し、相手の現実の姿を見るためには、相手を、そして自分自身を、客観的に知る必要がある。ある人間を客観的に知ったときにはじめて、愛の行為を通じて、その人の究極の本質を知ることができるのである。

 

成熟した人間とは、自分の力を生産的に発達させる人、自分でそのために働いたもの以外は欲しがらない人、全知全能というナルシシズム的な夢を捨てた人、純粋に生産的に活動からのみ得られる内的な力に裏打ちされた謙虚さを身につけた人のことである。

 

幼稚な愛は「愛されているから愛する」という原則にしたがう。成熟した愛は「愛するから愛される」という原則にしたがう。未成熟の愛は「あなたが必要だから、あなたを愛する」と言い、成熟した愛は「あなたを愛しているから、あなたが必要だ」と言う。

 

自分自身の愛する能力によって母親的良心を築き、理性と判断によって父親的良心を築きあげるのである。しかも、母親的良心と父親的良心はたがいに矛盾するように見えるが、成熟した人間はその両方によって人を愛する。

 

私たちは「愛」のなかに、ついに孤独からの避難所を見つけた、というわけだ。人は世界にたいして、二人から成る同盟を結成する。この二倍になった利己主義が、愛や親愛の情だと誤解されている。

 

一人の人をほんとうに愛するとは、すべての人を愛することであり、世界を愛し、生命を愛することである。誰かに「あなたを愛している」と言うことができるなら、「あなたを通して、すべての人を、世界を、私自身を愛している」と言えるはずだ。

 

現代文明は、人びとがそうした孤独に気づかないように、さまざまな鎮痛剤を提供している。それはまず第一に、制度化された機械的な仕事の、厳密に決められた手順である。これがあるために、人びとは、自分のもっとも根本的な人間的欲求、すなわち超越と合一への 憧れに気づかない。しかし、機械的な仕事だけでは孤独を克服することができないので、娯楽までが画一化され、人びとは娯楽産業の提供する音や映像を受動的に消費している。さらには、次から次へと物を買いこみ、すぐにそれを他人と交換したりして、孤独を紛らそうとする。

 

今日の人間の幸福は「楽しい」ということだ。楽しいとは、何でも「手に入れ」、消費することだ。商品、映像、料理、酒、タバコ、人間、講義、本、映画などを、人びとはかたっぱしから吞みこみ、消費する。世界は、私たちの消費欲を満たすための一つの大きな物体だ。大きなリンゴ、大きな酒瓶、大きな乳房なのだ。私たちはその乳房にしゃぶりつき、限りない期待を抱き、希望を失わず、それでいて永遠に失望している。いまや私たちの性格は、交換と消費に適応している。物質的なものだけでなく精神的なものまでもが、交換と消費の対象となっている。

 

母親は生命をあたえることができるが、奪うこともできる。生き返らせることも、破滅させることもできる。愛の奇蹟を起こすこともできるが、ほかの誰よりも子どもを傷つける。(ヒンドゥー教の女神カーリーのような)宗教的イメージや、夢に出てくる象徴には、しばしば母親の二面性が見られる。

 

愛があれば絶対に対立は起こらない、という幻想である。人はふつう、どんなことがあっても苦しみや悲しみは避けるべきだと信じているが、ちょうどそれと同じように、愛があれば対立は起きないと信じている。どうしてそう思うのかといえば、身のまわりで見かける対立がすべて、どちらの側にも良い結果をもたらさない破滅的な交わりにしか見えないからだ。なぜ双方に好ましくない結果しかもたらさないかといえば、ほとんどの人の「対立」が、じつは、真の対立を避けようとする企てにすぎないからである。

 

人を愛するためには、精神を集中し、意識を覚醒させ、生命力を高めなければならない。そして、そのためには、生活の他の多くの面でも生産的かつ能動的でなければならない。愛以外の面で生産的でなかったら、愛においても生産的にはなれない。

 

強烈パンチばかりで、ついたくさん引用してしまった・・・!

耳が痛いことばかりですが、フロムさん、ありがとう!

 

なんだか、とっても歩きたくなりました。

どこまでも、どこまでも、ただ歩きたくなりました。

 

<追記>

この本を読むと、もう本当に、日々の実践しかないよなぁ~って思う。

日々と言いながらも、日々なんてものはないから、正確には「今の実践」なんだけどね。

 

今の僕には「真の対立」という言葉がすごく心に響いている。

 

人と会って、あえて喧嘩を売りに行く必要はもちろんないと思う。

けど、嘘くささを感じたら、そのど真ん中をぶち抜くように「嘘くさい」って言えたら、ここにいる2人にとって、いい時間が流れ始めることは知っている。

 

僕は対立することを怖がって、その一言が言いたくても、なかなか言えない、なんてことがたくさんある。

言えなかったときは、決まってモヤモヤして、何も残らない。人と繋がれた温かい感触も、知恵も、能力も、記憶も。

 

でも言えたときは、本当にいい時間が流れる。宝物のような出会いになる。

 

だからやっぱり、人と会うことは続けたいし、人から逃げたくないと思う。

対立しちゃってもいいんだ。愛があれば、対立が起きないなんて幻想なんだ。

 

幻想じゃなくて、今ここにある現実を生きたいんだ。今ここで、修練を1つずつ重ねたいんだ。

 

追記終わり!

テーマがテーマなだけに、シリアスな空気になっちゃった。

この感覚を大事にしながら、今もちゃんと楽しんでいくよ!

 

じゃ今日はこの辺りで!雨模様でも、ちゃんと運動するんだよ~!

また明日!ばいばい!

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