女には幸福も不幸もないのです。男には不幸だけがあるんです[364/1000]

潤沢にあふれ出ていた湧水が枯れるように、ある日文章を書けなくなりそうだ。空になった酒瓶をさかさに振って、一滴の酒を必死にしぼり出すようにして、「1000日投稿」をつづけてきた。その最後の一滴すらも、もう枯れてしまいそうだ。まだ酒があるように振る舞って毎日やっているが、虚勢以外の何物でもないことを自分は知っている。しかし、仮に虚勢だろうと、虚勢すら張らない人生よりはマシかもしれないと、そんな思いで今日も酒瓶をふりつづけるのだ。

 

昨日、太宰治原作の「ヴィヨンの妻」を観た。太宰治の人生がそのまま投影されている。太宰治は子供の頃からいつも死にたがっていて何度も心中を試みたという。ヴィヨンの妻のなかで、太宰はこう語る。「女には幸福も不幸もないのです。」「男には不幸だけがあるんです。いつも恐怖とばかり戦っているんです。」

この言葉に戦慄した。太宰治だけではなく、芥川龍之介や三島由紀夫など、文豪には自ら命を絶った人間が多い。私のような凡人には彼らの死は理解できないが、彼らは弱さ故に命を絶ったというよりも、人間そのもののなかに殉死したようにみえる。純粋な人間だけが抱える弱さであり、凡人にはもてない堕ちきる強さを、彼らは弱さとして、なしうるのだと思う。だから酒に溺れるように弱く、哀しく、怖ろしく、不幸でありながら、純粋さゆえの人間の格を感じてしまう。

 

純粋な人間に触れるほど、自分は人間にも満たない不純な人間であると感じる。そんなとき、自分の書く文章にかぎらず、人生そのものに対しての強烈な嘘くささ満たされ、やりきれない気持ちになる。

「女には幸福も不幸もないのです。」「男には不幸だけがあるんです。いつも恐怖とばかり戦っているんです。」

太宰治の言葉を信じるのは怖ろしい。彼らの言葉を信じれば、人生はたちまち不幸と苦悩と懊悩に満ち、死に追いやるしか自己を救う方法を見出せなくなりそうだ。私は無意識でそれを怖れ、遠ざけようとしている。純粋に生きることに憧れながらも、ほんとうに死ぬことを怖れる肉体が、不純な幸福思想のなかに身を安住させる。幸福の温床となった現代社会に感じるどこかこの薄情で卑猥な感じは、孤独に死んでいった人間の霊魂をも拒絶せずにはいられない不純な弱さから生まれているのではないか。

 

彼らから感じる死は、そのまま宇宙に繋がっているように感じる。宇宙の力がそのまま肉体に宿り、その純粋な力が強すぎて肉体が耐え切れなかったのだと思う。怖い。もうこのまま、幸福に身を安住させてもいいのではないかと思う。しかし、人間として生まれたその一点に宇宙的な意味を見出そうとするなら、不純と卑猥を恥じて彼らの清純な魂ともっと向き合わなければいけない。これはただの虚栄心か。それとも義務感か。知らなきゃよかったことはたくさんある。

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