快楽主義について[365/1000]

1日1食で基本は玄米と少しの野菜しか食べないというと、禁欲主義であるように思われるし、私自身、軍隊のような部活でストイックな高校生時代を送っていた影響もあり、一時は毎日瞑想をして、仏教や武士道の禁欲主義に美学を見出してきた、と自分でも思っていた。

実際そんな側面もあると思うが、澁澤龍彦の「快楽主義の哲学」を読み、古代ギリシャのエピクロス派の快楽主義というものを知ってみると、どうやら私は東洋的な快楽主義者であることも認めなければならなくなった。

 

快楽主義にも、西洋的な快楽主義と、東洋的な快楽主義がある。前者は文明的、物質的、反自然主義的で人工楽園を築くことを目指すのに対し、後者は自然と親しみ、物質的欲望を軽蔑し、反文明的であり、自然との合一をめざす。

私が7月から思い描く森での暮らしは、ソローの「森の生活」にならうような、本に囲まれた隠者の精神生活である。最低限の物だけで暮らし、物質よりも精神を探求する美学をおもんじる社会からの逃避は、東洋的な快楽主義とかなり似ていると感じる。

 

ただ、別にどちらの主義に属していてもいいと思う。目指すところは、憧れに向かい、生命を燃焼させる一点であり、その手段が禁欲的であろうと快楽的であろうと大した問題にはみえない。それに、あるときには禁欲主義に見えても、中長期的に見れば緊張しっぱなしということはありえず、その反動によって快楽主義となることもあるだろう。昨年の冬は、極寒の朝晩、1時間ずつ瞑想をしていて、とにかく緊張しっぱなしだったけれど、今は緩和している。

エピクロス派の快楽主義も、ストア派の禁欲主義も、めざすところは同じ「自然との一致」あった。行きたい方向さえぶれなければ、主義の違いは小さな問題でしかないように思う。

エピクロス哲学もストア哲学も、自然と一致して生きることをモットーにしていたのです。自然と調和して生き、なにものにもわずらわされない平静な心の状態、すなわち、アタラクシアに達することを求めていたのです。

澁澤龍彦の「快楽主義の哲学」

 

死をごまかすことは好まない。私がもともと快楽主義に抱いていたイメージは、死にフタをするような”現代の”快楽主義だった。レジャーと呼ばれるような規格化された快楽は、すべてが憂さ晴らしのごまかしで、人生の虚無に対しても、魂の救済に対しても無力である。私はそこに自己の生命に対しての不誠実さと、社会の犬に成りさがった惨めさに悲憤をおぼえる。大衆化したテーマパークも、人ごみだらけの海も山もきらいである。

 

昨日も書いたが、太宰治原作の「ヴィヨンの妻」では、作家大谷は酒を浴びるように飲み、愛人と交わった後、心中を試みる。あの描写が頭から離れなかったが、極限のエロスが死に通ずることを知って腑に落ちる部分があった。快楽主義も、もともとは死を考えるものであった。

オルガスムの美学の最高の理想は、情死だろうと思います。性的なエネルギーのすべてを、ただ一回の性交で完全に放出してしまえば、あとは死があるばかりです。それは、一夫一婦制を賛美する一種の絶対的な人工楽園、性的恍惚の極限としての一種のユートピアの実現であって、エロスと死の本能とが、ここでみごとに溶け合っているのです。なぜ情死が一夫一婦制の肯定になるかといえば、恋愛というものを一回かぎりの情熱として、死にまで高めようという欲求があるからです。死んでしまえば、もう絶対に相手を裏切ることはできない。死は最高の保証であり、献身であります。

心中をする男女は、死ぬまえにかならずセックスの営みをするということが、よくいわれますが、考えてみれば、これほど当然のことはありますまい。オルガスムと死とは、この場合、ほとんど等しい価値をもっているのですから。

澁澤龍彦の「快楽主義の哲学」

 

快楽主義にも、死ねば恥にはならないという葉隠の精神が流れるのを感じる。性的なエネルギーを完全に放出し、そのまま朽ちるように死んでいく潔さがあるのなら、そこには卑猥さはなく、むしろ花火が爆発のあと儚く朽ちていくような美しさがある。

とりあえず、ヴィヨンの妻を観た昨日から、酒が飲みたくてどうしようもない。私は体質で酒がいっさい飲めない。しかし、客人をもてなしながら、熱かんで愉快な晩をすごしたい。

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