もし神が毎日授けてくださるいいことを味わう率直な心を持っていたなら【インド紀行③】[618/1000]

インド人は素朴な人間だと話には聞いているけれども、まさか蓋を開けてみれば、僕が一番素朴な人間だったなんてことはないだろうね?むろん、こんなのはただの戯言だ。僕がいくら森の隠者だったとしても、所詮は、素朴を重んじている”洗練された側の人間”にすぎないし、真に素朴な人間は、真に信仰ある人間が、神様を信じるか否かの問いの前提を持たないように、存在そのものが素朴になりきっている。でも、どうだろう。インド行きの便を待ちながら、僧侶姿の少年までもがスマホを手にしているのを見た時には、物質文明の強大さを思い知った気がしたよ。

ついでに言っておけば、僕がインドで楽しみにしているのは、真に素朴で敬虔な祈りを捧げる老婆の姿を拝ませてもらうことなんだ。もしほんとうに、そんな人間に出会うことができたら、僕は生涯、老婆の姿を思い出しては涙を流し、勇気を振り絞れるだろうと思う。

 

それにしても、隠者の生活は随分と僕を鍛え上げてくれたようだ。昨日、家を飛び出してから今日までの待ち時間、電車に乗る間も、8時間以上の乗り継ぎの間も、一度だって退屈することはなかった。むろん、電子機器など操るものか。大半の時間は、何もせずじっと世界を眺めては、時間の深くを十分に味わえている感覚がある。

ショーペンハウアーも言うけれど、人間は退屈と困窮を繰り返す生き物らしい。そして僕が思うに、この2つでは退屈のほうが罪が重い。なぜなら、退屈とは脳髄の衰弱によって表象を味わい尽くすことのできない無力の上に起こりうる人間の屈辱を言うのに対し、困窮はむしろ困難のために力を引き出されるものだから。困窮は神に試されている、退屈は悪魔に試されていると言えるかもしれない。

 

僕は退屈を克服する感覚に、全幅の信頼を置いている。この感覚を頼りに生きてゆけば、どんなことがあっても大丈夫だろう。これは人間として、とてもとても重要なことだと思う。この感覚をもちつづけるかぎり、僕らはどれだけ離れていても、繋がることだってできるんだ。力の上に魂は救済されるのだ。

ちょうど今読んでいる、ウェルテルの言葉も書き添えておくよ。

「もしわれわれがいつも、神が毎日授けてくださるいいことを味わう率直な心を持っていたなら、たといいやなことがあっても、それに堪えることのできる力を持つことができるだろう。」

 

旅が人間を交渉にするのは、自分を自分よりも大きなもののなかに投げ入れるからだね。間違っても、旅は物質に堕ちちゃだめだ。俗物みたく言葉を粗末に扱っちゃ、生活と本質は何も変わっちゃいない。旅はすべてが詩で綴られるべきなんだ。ゆえに、孤独でなくちゃならない。僕はあまりにも、物質を拒絶しすぎているだろうか。でも許してほしい。インド行きの飛行機で、すぐ後ろの席の大学生と思われる日本人の男女が、言葉が誰にも分らないのをいいことに、場所も弁えない卑猥な会話を延々と繰り返していて、僕は物凄く憤慨している。朝の澄明な空気を隣人の喘ぎ声で台無しにされたら誰だって怒るだろう。寒さや飢えなら我慢できる。けど、こんな精神的侮辱は一番の地獄だよ。家を出てからというもの、魂は悲憤の涙を流しつづけている。

 

2024.2.28

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