日本人の魂が詰まった古き良きものを廃れさせちゃいけない[216/1000]

 

山を買って小屋を建てる準備を進められる所から進めたいと思い、3日間の伐木教習を受けてきた。木の伐り方やチャーンソーの扱いや法律などを網羅的に学びながら、実習部分では実際にチェーンソーを使って木を伐っていく。漫画では剣士が木をスパッと一刀両断するシーンがよくあるが、現実ではそのような”斜め伐り”はタブーである。木が倒れる方向を予測できないからだ。小さい木ならまだしも、15mや20mもある木が自分の方に倒れてこれば大惨事となる。

伐木のときには、”受け口”といって、木を倒したい方向にパックマンの口のような形をあらかじめ作っておく。その反対から”追い口”といって実際にノコギリを水平に入れていき、最後はクサビを金槌で打ち込んで確実に倒す。これが日本の伝統的な伐木方法である。

 

先生からおもしろい話を聞いた。斧の表には3本の線が入っていて、裏には4本の線が入っている。これは信仰である。線は「気」を表しており、3本線は3つの気でミキ、つまり「神酒(みき)」を表し、4本線は4つの気で四気、太陽・土・水・空気を表している。四気は、木を育てる気と考えられた。

木が万が一自分の方に倒れてきても、「3(身)を4(避)ける」と縁起を担いでいたとも言われている。かつての木こりは、伐木の際に斧を樹に立てかけて、木に祈りを捧げてから伐木を行った。

 

この話を聞いたときが、3日間を通して最も心が動いた時間だった。実習では斧を扱うことはなく、すべてチェーンソーで木を伐った。チェーンソーは混合燃料といってガソリンをエネルギー源にするため威力は凄まじい。便利で効率的であることは間違いないが、力を加えなくても自重で木が切断されていくのは味気ないとも思った。チェーンソーには3本の線も、4本の線も入っていない。ここでも信仰が失われてると思うと虚しくて、チェーンソーという道具に愛着を覚えることはできなかった。

現代でチェーンソーを使わないことは稀で、神社の御神木を伐るときくらいらしい。3人の男が同時に斧を振りかぶって、でっかい御神木を伐る様子は、男気が溢れて、かっこよく、温かいと思った。

 

肉体のすべての力を木にぶつけるとき、自然との交流が生まれている。振りかぶった斧には、人間の感情が込もり、木は大地に張った根で身体を支えながら、斧を黙って受け止める。ここにエネルギーが衝突する。斧を振りかぶるエネルギーがガソリンに置き換われば、人間は疲れない代わりに、木との交流も失われる。森林伐採の悪いイメージは、すべてが機械的に行われることが原因に思う。当然であるが、機械的になるほど行為から垂直性は失われる。マタギが熊とタイマンを張る様子はカッコイイが、これが自動小銃になればただの虐殺である。

 

林業に携わられる方は、チェーンソーを使わなきゃ仕事にならないだろうけれど、効率を求めない人間は、必ずしも便利な道具に頼る必要はない。教習を終えて、心が躍っているのは、チェーンソーの使い方を覚えたからではなく、斧と鋸と身体の力だけで、木を伐ろうと心持ちが固まったからだった。

3日世話になった先生に、斧で伐る心持を伝えると大変だよと、変わり者を見るような目をされたが、その後は温かい顔で、まあやってみればと背中を押してもらえた。道具が普及するほど、道具を使わなきゃできないみたいな感覚になっていくが、昔の人間は当たり前のようにやっていたことである。

いつしか私の中で、日本人の魂が詰まった古き良きものを廃れさせちゃいけないという信念が固まりつつある。

 

精神修養 #126 (2h/260h)

心は安心であることを望むが、心を安心させることと、肉体を安定させることは同義ではない。肉体の安定によってもたらされた心の安心は、肉体が不安定になった時に失われる。肉体は常に世界に晒されて、自然の中で傷つきながら老いていくものだから、安定に求める安心は、脆弱なものともいえる。

天風先生の本を読むと、肉体が死に直面したときでさえ、心が安心でいられるなら、それ以上の安心はないだろうとも思う。果たしてそんなことができるのかと言われれば、相当な修養を積まなければならないだろうが、安心が無条件に発動するものなら、それは自然の法を身としているような瞬間だろう。

【0円で生きていける拠点づくり】

森の中に瞑想小屋を建て、家を開放するのが直近にやりたいことです。

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