ナルシシズムの克服[330/1000]

5年前に抱いた憧れをようやく形にしようとしているのに、心は踊るどころか怯えている。とりあえず森を手にしたものの、そもそも本当に家を建てられるのか自分でも知らないのだ。昨日、ホームセンターで、どのクギを選べばいいのか種類すら分からなくて絶句した。想像の中では、職人のように華麗に木を削り、大工のように手際よく家を建てるような全知全能を経験するが、現実では既にそれがナルシシズムであることを知る。クギを打ったのは、小学生2年のときの夏休みの工作で、おもちゃのパチンコ台をつくったのが最後だ。ノミや斧など扱ったことすらない。20mの木も倒したこともない。こんな状態なのにどうして、自分を職人だと想像できただろう。

 

言葉や想像の世界では自分を大きくすることも小さくすることもできるが、行動は行動のまま如実に宇宙に記録される。ここには事実だけがある。この客観性を身に着けたいと願うのだ。自分の内側にあるものと、外側にあるもののバランス感覚をちゃんとすることは、フロムのいう「ナルシズムの克服」に通ずる。この本は何度も読み返すが、その度に歪んだ自惚れに恥ずかしくなるばかりである。

成熟した人間とは、自分の力を生産的に発達させる人、自分でそのために働いたもの以外は欲しがらない人、全知全能というナルシシズム的な夢を捨てた人、純粋に生産的に活動からのみ得られる内的な力に裏打ちされた謙虚さを身につけた人のことである。

エーリッヒ・フロム, 「愛するということ」

 

ひじょうに耳が痛い。

人様がやっているのを観ると、自分がやっているように錯覚する。簡単そうに見えると、自分もできるものだと思う。古典を読むと、自分が賢くなった気持ちになる。しかし、現実は何も変わっていない。

堕落も客観的なものであって、どれだけがんばったとしても、一人前に働かなくなった人間は、堕落している。お前はがんばった、と相手を労うことはできても、堕落は努力ではなく結果をみる。「お前は悪くない、悪いのは社会だ」と言えば救われた気持ちになるが、一歩間違えれば、ナルシシズムの深みに引き込むことにならないか。いっぽう、必要以上に自分を責めることも起こりうるので、どちらが悪いとかそういう話ではなく、自己のナルシシズムを認めて、裁判官のように客観的に公平であることに努めるしか、成熟の道はないのではないか。

 

中世の人は神を真剣に考えていた。つまり、人生の最終目標は神の掟にしたがって生きることであり、「救済」こそ究極の関心事であって、すべての活動はそれに捧げられた。ところが現代では、そうした努力はどこを探しても見当たらない。日常生活は、宗教的な価値からはきっぱりと切り離され、物質的安楽と、人間市場での成功への努力に捧げられている。私たちの世俗的な努力の土台となっている原理は、無関心と自己中心主義である

エーリッヒ・フロム, 「愛するということ」

 

本当に客観的な人間など存在するのか。多かれ少なかれ、ナルシシズムを抱えているのが人間の不完全さだと思うし、この1000日投稿も恥ずかしいことにナルシシズムに満ちていると自覚する。ただ、ここで神について頻繁に考えるのは、神の概念がナルシシズムの克服に通ずると信じているからである。私が唯一自分を誇れるのは、物質から離れ、魂の救済を中心に人生をつくろうとする気概だけである。

ナルシシズムはいたるところにあって、この1000日投稿も、ほんとうは3年くらいやっているつもりでいる。現実の330日目という数字を目の当たりにすると、いかに自分が生き急いでいるのかがよく分かる。何かの映画で、無人島に流された人間が、月日を知るために、太陽が昇った回数を、岩に刻むというものがあった。正気を保つには、自分の主観の及ばない領域に、世界に残る何かを刻む必要があるのかもしれない。

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