虚無について③[338/1000]

やせ我慢であることには間違いないが、私にとって断食の苦痛はさほどない。一日一食しか食わないのだから、その一食をスキップすれば、強い決意がなくとも断食ができてしまう。2,3日食わなくたって平気だろう。しかし、食わないことによってあらわとなる虚無の苦痛は耐えがたい。この虚無の苦痛をやわらげるためだけに、食わざるをえない。食うことで、虚無はごまかせる。いわば、鎮痛剤みたいなもので、生存のために食う分量なんてほんのわずかである。

空っぽとなった胃には、食い物の代わりに、虚無が流れ込んでくる。まるでこの宇宙を食べているようだ。(やり方を変えれば、きっと愛だの友情だのというものも食べられるのだろう。)昨晩は、気が狂いそうになり、思わず聖書に飛びついた。ごまかしがきかないときほど、純粋なものに触れたくなる。不思議な感覚であったが、昨晩はかつてないほど、聖書の言葉が体内に流れ込んでくるようだった。福音書が温かな光となって、一緒になって虚無と戦ってくれる。

 

ちょうどマタイによる福音書で断食についての言葉があった。

「断食をするときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。」「あなたの断食に人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」

 

断食の信仰的な意味は、より神との結びつきを強くすることだろう。空っぽとなった胃に流れ込むのは虚無であるが、信仰のある人間に流れ込むのは、神の心である。

そう思うと、やっぱり私は神を信じられていないのだし、真の孤独(我と汝)に足を踏み入れることもできていないのだろう。そうでなければ、そもそも虚無が肉体を喰うことなどないはずであるし、もっと聖書と共にある。もしこの虚無の代わりに、神秘的な温もりに包まれるのなら、どれほどの勇気をもってこの人生を生きられるだろう。

いつの日か、諏訪湖のクリスマスミサにお邪魔したときの、パンを幸せそうに食べる親切なご婦人の顔を思い出す。あの方は、人生の虚無とは無縁に生きているのだろうか。生きること”自体”の絶望を背負ったまま死んでいくのか、それともこれがクルっと反転し、生きること”自体”が希望となる日が訪れるのか。

因縁の虚無を燃やし尽くせるか。

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