エネルギーを善とし無気力を悪とする[523/1000]

エネルギーを善とし、無気力を悪とするのは、誇りや精神の名の下においてであると補足する。

 

精神とは、熱を盛る器であって、器に盛られた熱が爛熟し、恋のエネルギーとなる。精神なきところの熱は、流れ落ちるように放縦し、信仰の土壌がなければ、虚無の沼に飲み込まれていく。これが結果的に、人間の無気力につながると考える。

また、精神や誇りなきところのエネルギーは、法と時代と道徳によって濾過される。なぜなら、エネルギーは善悪を知らず、誇りや精神による制御のないところでは、法と道徳に頼らねば、社会性を維持できなくなるからである。これにより、エネルギーは法と道徳の網目に絡まれて、知らぬ間に気滞を引き起こし、ここでもやはり無気力となろう。

そういう意味で、精神とは、独立自尊の獅子であるといえそうだ。そして獅子を導く旗印が誇りである。

 

発熱の反対にあるもの、無気力の原理とは何か。それは、生命を蝕む沼のようなものだ。言葉を換えれば、静かに熱を奪うものだ。心が傷つくという現象にしても火傷か凍傷かという違いがある。真正面から耳の痛いことを言われるのは、火傷であるが、陰からの誹謗中傷は凍傷である。火傷は、心に熱を与えつづけるが、凍傷は心を冷たくしつづける。

 

憎悪も軽蔑も、希望を見出せないことが長くつづくと、冷笑的になる。冷笑的な憎しみ、冷笑的な軽蔑、これは孤独の人間に近づく悪魔の歩みである。熱を奪い、無気力の原理による以上、反生命的な態度だといえる。

 

***

 

私自身、禁欲的主義を採用して、快楽に対しては精神的武装をつとめてきた。この生命論をもって快楽を論じてみるなら、快楽が無気力の原理であるものなら悪、力の原理であるものは善と言えそうだ。

冷熱二面の状態に陥りやすい、表面だけ熱狂して、底冷えているような状態ではなく、二分されない、全体性を保ったまま享楽を愉しめばよいのだ。

 

2023.11.25

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です