「月と六ペンス」幸福を捨てて憧れのために生きられるか。[244/1000]

昨晩、1時に目が覚めた時、魂がここに在るのを感じていた。ある種の悟りを得られそうで得られない、夢から覚めた後特有のもどかしさの中にいた。外に出て雨に当たって、それを思い出そうとするも、これが何なのか分からない。しかたなく、床に戻り、夢の続きを期待するも、朝を迎えた今、どんな夢を見ていたのか、あの感覚が何だったのか、あとかけらもなく消えてしまった。漠然とした恍惚感の中、雨に打たれたことしか覚えていない。

 

ひたすら本を読んで魂に触れる。魂に触れられなければ、触れられるまで何度も読む。すると少しずつであるが、魂の片鱗に触れられるような感覚を得始めた。霊的な感覚である。昨晩、月と六ペンスのストリックランドの魂を感じていると、なぜ人間として生きているのか、人間としてどう生きなければならないかが、霊的なエネルギーとして肉体に流れ込んでくるのが分かった。精神がストリックランドの魂を食ってるのが分かった。「人はパンのみにて生くるものにあらず。」肉体はパンを食べなければ生きられないように、精神も魂を食わなければ生きられないとは、こういうことなんだろうか。昨晩の恍惚体験は、この霊的なエネルギーが身体に流れ込んでくる感覚そのものだったように思う。起きている時に未消化だった魂が、眠っている間に消化される過程に入ったと想像する。どんな夢を見ていたかは覚えていないが、夢の内容は重要ではない。すべては精神上の営みだったと思う。

 

魂だけに憧れ、魂だけを追い求める。モーム著、「月と六ペンス」ストリックランドは、そんな人間だった。妻を捨て、子供を捨て、仕事も、家も、財産も、幸福もすべて捨てて、絵を描くことだけに命を奉げた。病気で死にそうな所を看病してくれた夫婦が不幸になって、人が死んでも、だから何だと言うように、現世のまやかしには興味すら持たず、魂の憧れの一点だけに恋焦がれ続けた。神に仕えるように、死ぬ瞬間まで絵にすべてを奉げたその姿は殉教そのものだった。純粋の毒性が高いのは自然界の掟である。義の純粋を貫くのなら、周囲のものは必然と破壊されるのだろう。

 

親を捨てられるか。友人を捨てられるか。妻を捨てられるか。子供を捨てられるか。仕事を捨てられるか。家を捨てられるか。財産を捨てられるか。幸福を捨てられるか。世間体を捨てられるか。そして自分の命までを捨てて、憧れのためだけに生きられるか。決して昔の話ではない。今日もその覚悟が問われている。物質主義の世の中になろうと、肉体至上主義になろうと、人間に魂がある以上、生き方の崇高は変わらない。

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