魂の救済における2つの指針[245/1000]

魂の救済における2つの指針。

  1. 過去の偉大な人物の魂を食らい尽くすこと
  2. 自己中心主義の毒を食らい尽くすこと

 

1. 過去の偉大な人物の魂を食らい尽くすこと

大伴部博麻(おおともべのはかま)という人物がいた。663年に白村江の戦いで唐軍に捉えられ、長安におくられる。長安には捕虜扱いとなっていた遣唐使が4人いて、唐が日本侵略を企てていると情報を得た大伴部博麻は、自らを奴隷として売って、その金で遣唐使を日本に帰した。大伴部博麻は奴隷として暮らし、27年後に自由となり帰国した。持統天皇は彼の国を思う忠義な心に感服し、勅語をおくった。これは、天皇が一般個人に与えた史上唯一の勅語と言われている。

大きな歴史を学ぶ時、27年という歳月は取るに足らない小さなものに思える。しかし、大伴部博麻という一人の人物にとっては、人生の大部分を占める期間であったはずだ。自らを奴隷として売った時は死ぬまで奴隷になることを覚悟しただろう。日本を守る一心のために、肉体ではなく魂を生かした。

 

このような偉大な魂に多く触れたい。昨日書いた、モームの「月と六ペンス」もそうである。

彼を思うと、自分の人生ばかり見て、目先の1年の幸や不幸を論じる現代の自己中心性が恥ずかしくなる。恥の感情を大切にしたい。楽な生き方を恥じるから、自分を律することができる。恥じなければ駄目で、恥じる度に魂が救済されていくと思いたい。なぜならば恥とは、魂から自己を顧みる時に生まれる感情だと思うから。過去の偉大な魂に敬意をはらって、彼らの魂を食らい尽くしたい。

 

2. 自己中心主義の毒を食らい尽くすこと

私自身、自己中心主義に汚染された現代人である。長いこと、魂と分断されて生きてきた。しかし、魂と完全に分断されたわけではなく、ぎりぎりのところでは魂と繋がっていたように思う。ぎりぎり残された魂が現代への違和感を生み出し、人間の苦しみとして問いを与え続けてくれた。そしてついに、「幸せに満ちた世の中は息苦しい」というある人の言葉をきっかけに、幸せが絶対正義となった自己礼賛の世を捉えた。苦しさの正体は、魂が死んでいく悲痛な叫びであることを認識した。

 

今の私の属性は、”魂の救済を試みて自己礼賛から脱しようとする現代人”である。テレビの音を聞けば発狂しそうになり、スーパーで流れるコミカルな音楽を聴けば気が狂いそうになり、安心安全で快適な家に入り浸れば、精神を病む。

以前は、俗世間が嫌になって、山ごもりをしたこともあった。しかし、物質主義から逃げたとしても、僧侶でもない私は中途半端な存在になるばかりか、俗では暮らせないという不自由も被った。

 

有難いことに、毒を食らい尽くす思想を得てからは、こうした俗世間の毒も食らい尽くせることを知った。現代人として生きる以上、食らい尽くさなければならないことを知った。スーパーの音楽に気が狂いそうになっても、グッと飲み込むことで、へっちゃらになる。社会を覆う空気に飲まれるのではなく、抗い、苦しさ丸ごと飲み込んでしまう。これを試みることで、精神を保ったまま、街にいることも以前よりできるようになってきた。

 

 

以上、魂の救済において、①過去の偉大な人物の魂を食らい尽くすこと、②自己中心主義の毒を食らい尽くすこと、の2つを指針としたい。日常の中でどれだけ非日常性を保てるかが、魂の救済における鍵である。何もしなければ、楽な方に流れていくのが人間なのだ。何もしなければ、水平化の一途をたどっていく。そうなりたくなければ、自己に抗い、世間に抗い、苦悩を味わって、精神で丸ごと食らい尽くすことにしか、魂の生き方はないと信じる。

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