「寒くなる、嫌だなぁ」なんて思っちゃいないかい。[218/1000]

「寒くなる、嫌だなぁ」なんて思っちゃいないかい。そんなんだから風邪もひくし、仕事にも行きたくなるし、何をするにも億劫になるんだ。「寒くなる。よし!身体が強くなるぞ!」と言葉にしてごらんなさい。背筋も気持ちもスッと伸びて、心にグッと力が入り、ちょっとやそっとじゃ怯まなくなるから。

 

そんな天風先生の声が聞こえてくる。言葉の言い方一つから、言葉の発する波動が身体に伝播していく。寒いなぁ、嫌だなぁと思えば、布団から出るのが億劫になって、外に出るのも仕事をするのも人に会うのも億劫になる。これを無自覚に、日中ずっと弱気な波動を身体に送り続けていたら、そりゃ心も身体も弱っちまう一方だ。

 

天風先生は、何事も心の置き方一つだという。心が積極に向かうか消極に向かうかで、1つの行為に正反対の結果を生む。”食わない”だと強くなるが、”食えない”だと弱くなる。”水を浴びる”だと強くなるが、”水に濡れる”だと弱くなる。すべて結果には原因がある。断食や水行の例をみれば、原因は行為そのものよりも、心の持ち方にあることが分かる。原因と結果を、目に見える行為上のものだけで判断しようとすると、どうしても説明がつかない。

これは本当に不思議な心の力である。まったく工程も材料も同じなのに、ジャガイモやニンジンをルーでグツグツ煮ながら、美味しくなれ美味しくなれ、とニコニコ念じながら作るお婆ちゃんのカレーの方が、仏頂面に作られたカレーよりも美味しくが出来上がってしまうようなものである。

結果の原因は目に見える行為上に求めがちであるが、その後ろにはいつも心の向きが影響を与え続けている。どれだけ薬を飲み続けても、心の向きが前を向かなければ病の治りも悪いように。

 

さて、十年に一度の大寒波がやってくる。私は暖房のない外で暮らしていることもあり、こうした外気の変化には敏感である。本能がいつも死なないかを恐れ、消極的な心であれやこれやと、対策を講じようとする。消極的であるが、この消極性は無碍には扱えない。なぜなら本能心は肉体を生存させることが仕事であるからだ。本能心に積極的でいられては、今頃八ヶ岳の雪山で無謀にも野宿をして凍死しているだろう。

 

問題は本能心の消極性にあるのではなく、本能心に支配されることである。肉体がすべてになると本能心に支配され、心は恐れで満たされる。あくまで身体も心も道具であったはずだ。消極的な恐れを発する本能心も、道具だと知れば必要以上に恐れず積極的に使うことができる。消極的な心を積極的に扱えば、心よりも上位の存在でいる証となる。そんな状態を目指し修養したいと思う。

霊性心。もっと寒い地域にいて、もっと凍えながら暮らしている人は世の中に大勢いることだろう。自分以外の人間に心を寄せれば、本能の恐れは溶け出して、慈悲の心が生まれてはこないか。

 

精神修養 #128 (2h/264h)

眠たくなるのは、肉体が気不足を起こし、宇宙が調和に向かう力によっておこる生理現象だと思っていたけれど、否!

伐木教習が終わったので、ぐっすり眠ったが、今日も相変わらず眠たいではないか。そこで、眠たくなるか否かは、気の持ちようの問題が大きく絡むことを今更ながら認識した。消極的な心の持ち方をすれば眠くなり、積極的な心の持ち方をすると瞑想に集中できる。眠たくなる原因が気不足だとしたら、絶対積極の精神は宇宙から気をチャージするような状態であるかもしれない。眠たくて瞑想にならないとき、気は後ろを向いている。

 

[夕の瞑想]

眠たくなるのは、気不足である。肉体は気不足を睡眠という手段によって補おうとする。だから眠たくなる。下丹田、中丹田、上丹田がある。気は下丹田に溜まると言われる。背骨を通じて中丹田、上丹田へと登っていく。意識がぼんやりするのは、脳にある上丹田の気不足と言えるだろう。積極的精神は、体内の気圧ポンプを働かせるようなもので、気の流れを作るものに思う。

 

人間は、欲とはきっても切り離せない関係にあるが、より高尚なものになると、欲は意志となる。

【0円で生きていける拠点づくり】

森の中に瞑想小屋を建て、家を開放するのが直近にやりたいことです。

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