米を食えとは言わない[521/1000]

日本の空の色は、外国の色と違う。

それを知ったのは、大学生のころにはじめて外国へ留学したときだった。アメリカの空は、日本の空よりも、淡い感じがした。日本の空の青は、もっと原色に近いような青で、田舎の田んぼとあぜ道がよく似合う青だ。こうした空の色の違いも、経度と緯度の関係や、島を囲む海の諸条件なんかでも科学的に証明できるのだろうか。

日本びいきをするわけではないが、日本の空に最も青春を感じる。米爆撃機B29が空を覆った空もこの哀しみの空であった。

 

この隠遁生活では、西洋文学を読むことが多い。日本の古典は旧仮名遣いのおかげもあり、かなりとっつにくいのが正直な感想である。しかし、血の奥底に眠る民族的野蛮性と青春が掻き立てられるのは、いつも日本の文学である。流れる血には抗えない。

夏目漱石の「草枕」の一場面に、故郷を感じていた。旅の休みに田舎の茶屋に腰を下ろし、馬子がやってきて茶屋の婆と話をする。そのかたわら、旅人は詩を詠むという何気ない一描写にも、その天には、日本の青春の青が広がっているのを感じるようだった。日本人としての血が流れるかぎり、「われわれは何者か」という宿命は常にここにある。

 

今日、愛国心という言葉は、政治的色彩が強く、非常に扱いづらい。しかし、日本の空の青が好きだという人間と出会うならば、きっとその人間は日本という国を愛しているだろうと思う。いくら街並みが文明化し、地上の表象が変わっても、空の色はずっと変わらないのだ。和魂洋才である。

三島由紀夫が「若きサムライのために」でこう語っている。

私の言いたいことは、口に日本文化や日本的伝統を軽蔑しながら、お茶漬けの味とは縁の切れない、そういう中途半端な日本人はもう沢山だということであり、日本の未来の若者にのぞむことはハンバーガーをパクつきながら、日本のユニークな精神的価値を、おのれの誇りとしてくれることである

 

三島由紀夫は、物質文明の上に漠々と広がる、日本の空の青をいつまでも忘れるな、と言っているように思う。「米を食え」と言わない所も、三島由紀夫らしい。ハンバーガーをパクつく未来を、避けられないことだと知っていたのだろう。ハンバーガーは食えばいい。西洋文学も読めばいい。ハリウッド映画だって観たらいい。だが、日本の精神価値は聖域として己のうちに守り、誇りにすることだ。

ずっと変わらなもの。日本の空の青を愛することだ。

 

2023.11.23

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