食は信仰である。[398/1000]

西欧文明に支配された世に生きている。パンやパスタが当たり前に食べられ、日本人はほとんど米を食べなくなったと言われている。1962年の一人あたりの年間の米の消費量は118.3kgであるが、2020年には50.8 kgとなった。大まかに言えば、1日茶碗1杯強である。減反政策で田んぼも減った。

世相が米から離れるほど、私はますます米にしがみつかなかればならないと感じるようになるのである。食は信仰である。米や味噌汁、ぬか漬けや煮物といった伝統的な食のなかには、日本人の魂が貫いているのを感じるのである。いつしか、これを強く感じるようになると、小麦粉の食品が悪魔の使いのように見えるようになり、この悪魔はもう日本のすみずみまで棲みつき、日本人のほとんどの魂を食らい尽くしてしまったと感じるのである。

 

私自身、けっして食わぬということではないが、誘惑によってつい手を出してしまうときは、魂の本体までは奪われまいと、気を赦すことなく強い覚悟を持つのである。しかし、ほんとうは悪魔のささやきに惑わされることなく一刀両断できるはずであり、私はそれを探求している最中である。

私は土台となる食によって、その人間の信仰心をみることができる。土台となる食が、人間の体の基礎となり、心をつくるからである。玄米を常として味噌汁や煮物、魚を食べる人間には、その当人の意識がなくとも、どことなく日本の精神を感じるのである。いっぽう、何の疑問も違和感もなく、パンやパスタを当たり前のように食す人間からは、すっかり悪魔に魂を奪われた印象を受ける。つい数年前までの私自身がそうであったし、戦後、日本を慕う恋闕の情が、日本人の心からすっかり拭い去られてしまったことは、けっして食の西欧化と無関係ではないと感じるのである。

 

食が信仰であることを自覚すると、玄米や味噌汁を食すたびに、祖先と繋がることができる。自己が孤立した存在ではなく、一貫した存在なんだと実感することができる。この実感こそが、人間を真に元気にするのだ。なぜなら、元気とは元の気のことであり、元とは父母や祖父母、さらにそのまたご先祖様や天皇を通じ、宇宙の根源のことであるからである。

私は、魂の救済のために食を探求したい。”グルメ”などという悪魔じみたものではない。そうではなく、悪魔の誘惑を一刀両断し、現世を駆けぬけるための、信仰的な食である。体をつくるのも、心をつくるのも、すべては食である。だからこそ、食に魂をこめたいと思うのである。

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