この生命で宇宙の大元に根を張るのだ[399/1000]

周囲に目を配れる余裕はあってもいい。しかし、天の厳しさから目を背けるために、水平方向に逃げているだけだとしたら、なんとも情けなくないか。

 

スマホに人生を吸われるのが嫌で、思い切ってスマホを手放したのが2023年の1月。それからは、ぼーっと世界を眺めて物思いにふけたり、書を探求することがずいぶんと増えた。しかし、パソコンでブログを書くことに加え、動画編集をはじめると、ほんの少し調べごとをするつもりが、気づけば何時間も電脳空間に吸いこまれていることがある。

無尽蔵に沸き起こる情報の快楽は、いっけん役に立ちそうであるが、時代によって洗練されてきた書と比べると当然見劣りし、流行りものと同じく、風がふけばとばされてしまう塵紙のようである。賢くなった気にはなるが、実際は”小賢しくなった”というほうが適切であろう。腹にグーパンでも食らわせばすべてを吐き出してしまうような、貧弱なものにすぎない印象がある。

 

森に家をつくり、遁世に近い生活を試みる理由のひとつは、そうした時代の表皮に左右されず、古今東西変わらない、宇宙真理を探究するためであったはずだ。今日の政治も世界情勢も関心はつきず、つい情報を追ってしまうが、枝葉のすべてを追っていれば、現象にしがみつくだけで人生は終わってしまう。風に吹かれるままに飛ばされるのも一つの人生かもしれないが、私はこの生命で宇宙の大元に根を張ることを願っている。風が吹いてもその大地で踏ん張り、人のいなくなった孤独の砂漠で星を見上げたいのである。

そうなるために、どうすればいいのかは自分でも分かっているだろう。食べ物が人間の体も心もつくるように、自己の魂をつくるのも神の読み物、魂の読み物である。そうしたものに何度も触れて、自己の混沌におとしこんでいく。そして、木の葉が透明になるまで世界を見つめ、虫の音とひとつになるまで耳を澄まし、ほんとうに意味のある言葉だけを紡ぎ出すことである。

 

恥ずかしくも理想論ばかりを書いてしまったが、さあ私みたいな愚か者の人間が、そのような賢き人間になれるだろうか。目指すは憧れのみ。憧れだけをもって、森の家づくりもすすめる。

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