運命愛が自己をもっとも流体に近づける[400/1000]

地上に未練をのこすほど、自分というものがおそろしく弱くなることを実感する。宇宙の流れを汲みこみ、自分もまたその流体の一部としてありつづけられたら、どれほど人生は勇ましいものになるだろうか。

世界に粒度というものを感じる。粒度がかぎりなく細かくなるとき、その極みとして流体となるが、反対に粗くなるほど、固体や個人、物質としての意識は強まり、孤立感を味わうのである。

社会は粗いものだらけである。損得思考も、情報も、美衣美食も、地上のパンも、全部物質である。粗々しい現世を生きることは、ゴツゴツした岩にまみれたドロドロの川を、水となって流れるようなものである。まさに地獄である。これに魂を奪われるとき、人間は固体となる。しかし、この粗々しさに流体として立ち向かったのがイエスをはじめとして、信念に殉死していったような人間である。

歴史とは、流体として死んでいった人間がつないだ流れである。その最下流として今日がある。だから、数千年の時が経っても、流体となった人間たちの魂に今日触れることができる。固体となった人間の魂には触れることができないのは、この流れのどこか上流で、砂や岩や草木として歴史の一部を形成しているからである。そうした生命は今日には語り継がれないが、当然、それらの生命を含め歴史がある。

現世を生きる人間は、いかに自分自身が流体となれるか試され、真に流体となる人間だけが、次の歴史に名を残していく。宇宙はそんな大きな流れだと思う。

 

さて、凡な私は、森に家をつくろうも、杞憂がつきない。地震が起きたら倒れないかとか、この木で強度は大丈夫だろうかとか、考えるほどに不安がたえない。それらの杞憂を吹き飛ばすのは、「死んだらそれまでの人生だ」という考え方ひとつである。家が壊れても、神が私を生かすうちは、またつくりなおせばいいのだし、もし家が壊れて死んだとしたら、そういう運命だったということだ。仮にそうして死んだとしても、私は悔いがないし、不幸な人生だったとも思わない。ただ、そういう運命だったとして受け入れるのである。これはニーチェの運命愛(amor fati)であるが、運命愛こそ自分をもっとも流体に近づけてくれるものだと実感している。すべては神の導きである。

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