旅は人を「生活」から解放する。[579/1000]

旅は人を「生活」から解放する。生活とは、常識のシナプスだ。

生活から解放されることで、凝り固まった脳糸はほぐれ、隙間に新たな風が吹きこむのである。脳糸がほぐれ、一つ、またひとつと新たな形に紡ぎ直されると、世界が広がっていく感覚を抱くのである。

 

私は旅を愛した、と思っていたが、厳密には「生活を怖れていた」といった方が正確であった。よく分からないまま、気づいたら生きているという現状の「生」というものを一度も本気で考えてもみないまま、目先の「生活」に固定されてしまうことが、(いまでこそ言葉にできるが)不信仰ではなく、無信仰に思われた。とりわけ「生」の意味が天より啓示されない時代であるため、なおさらのことである。

 

旅によって「流体なる命」は救われる。われわれの本質は、流体だ。それが、顕著にあらわれる一つが、旅なのである。旅をすれば、われわれは本来の姿に近づく。生活に固着して忘れてしまった本来の存在を、旅を通じて思い出すのである。

ずっと流体でいられたら、それにこしたことはない。だが、坂口安吾も言うように堕落は起こるものである。同じ生活をつづけていくうちに、固く凝り固まっていくものがある。

 

だが、生活を悪とは言わない。生活は、「流体」であるわれわれが「物質」の助けを借りて、何かを築き上げていく試練に思われる。旅しかない人生はフーテンという。フーテンの寅さんのように、愛や義や信を大切だと言っても、妻帯も、ちゃんとした仕事もなければ、いくら人が良くても、生活的(社会的)には堕ちぶれているのである。

「旅」を悪だとも言わない。私自身、フーテンに生きてきた人間だ。生活に閉じこめられて、どうしようもなくなったとき、旅がすべてを解放する。生活から命を救い出す。環境をがらりと変える力は、最後の救いともなる。

 

オーストラリアや東南アジアを旅していたとき、youtubeにあげるための動画を撮影していた。だが、違和感は常にあった。説明的な言葉を発したり、撮影を意識すれば、せっかくの旅の神秘を台無しにしている感覚があった。

旅のなかでいい景色をみたら、誰かと分かち合いたい。美味いものを食べても、誰かと分かち合いたい。これは、誰もが抱える願いだろう。だが、旅が旅であるためには、我を忘れて見つけた景色に一人感動し、歩き飢えた果ての飯にひとり涙するような、自分と神の関係に秘められる必要があると思う。

詩を解説すれば興ざめだ。旅を解説すれば、ガイドだ。詩は詩のまま、旅は旅のまま、感じるままに味わいたい。

 

誰かと分かち合いたいが、分かち合えない。分かち合うためには、一度、物質を介さなければならない。ここに、われわれ人間が逃れることのできない、物質の悲哀を感じる。世界と一つになりたくても、分け隔たれた物質の宿命がここにある。

この悲哀を抱えながら、皆生きている。

 

2024.1.20

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