時間の哲学②-虚無にさいなまれやすい人間[526/1000]

独自時計が、太陽暦の速度を上回り、「浮遊した時間」が生じた場合、つまり、生き急いで「待ち」が生まれた場合どうするか、一つの結論をまとめたい。

 

問題の整理であるが、浮遊した時間は、何もしなければ、そっくりそのまま虚無に飲み込まれてしまう。生き急ぐ人間は、遅い社会を待たなければならず、待つという行為は時間をゆっくり感じさせる代わりに、過ぎ去った後では、無に帰して、人生が短縮されてしまうということだった。

虚無にさいなまれやすい人間は、こうして時間を奪われている。そして問うべきは、この浮遊した時間を「待つ」ことの代わりに何にあてるかである。

 

結論を先に言えば、神に還すことである。イエスが、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返せ」と言ったように、時間が神のたまものである以上、神に返すのが妥当である。そして、神に返すことの具体的な行動が「祈り」である。

祈りを考えるとき、ニュートンの話を思い出した。科学者でありながら、著作の半分以上はキリスト教関連の書籍を占め、学内のチャペルで毎日何時間も祈りを捧げていたという。

日本には祈りの習慣はないけれど、百姓の子供は親の手伝いをし、武士には禅が受け入れられた。永遠に通ずる行いこそ、日本流の時間の天への還し方であろう。「待つ」は「祈り」に変わり、大地へ天へ還っていく。

 

***

 

昨日分で書いた、私の独自時計の浮遊した6日間は、詩作に費やした。そして、一瞬のうちに過ぎてしまった。いくつか分かったことがある。

 

この1000日投稿が、虚無からの逃走からはじまった以上、形式を維持するために虚無の原理を踏襲せざるをえないということ。考えてみれば当然だ。独自時計が行為の基準になるのではなく、地球の自転に合わせて言葉をつづらなければならない。何も書くことがなくても、書かなければならない主客転倒が起き、無の中から何かを引っ張り出そうとする目論見が、既に虚無主義の手に落ちているといえないか。

独自時計だけに忠実に生きるなど、社会性のない隠者の妄想であるが、もしそれが可能となるなら、常にそこには「無」のかわりに何かが存在していることになる。

己の才能のなさにやりきれない気持ちに打ちひしがれているが、この6日間の詩作は大変有意義であった。

 

2023.11.28

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