眠らない部分にあるものを魂と言う[648/1000]

眠ることは、決して容易なわざではない。そのためには、なにしろ一日じゅう起きていなければならない。

また一日に十回も、あなたは克己に努めなければならない。そうすれば快い疲労が生じるが、それは魂を眠らせる阿片なのである。

十回も、そのうえあなたは自分自身と和解しなければならない。なぜなら克己するだけなら苦痛が残るから。そして和解しない者はよく眠れない。

十の真理を、あなたは昼間のうちに見つけなければならない。さもないと、あなたは夜になっても真理を探し求めるということになる。あなたの魂は空腹のままである。

十回も、あなたは昼間のうちに笑って、快活を持ちつづけなければならない。さもないと夜になって胃が、この憂愁の父が、あなたの邪魔をするだろう。

知る人は少ないが、よく眠るためには、われわれはすべての徳を持たなければならない。このわたしが偽証をするだろうか?わたしが姦淫をするだろうか?

隣人の婢女に色情を抱くだろうか?こうしたすべては、よい眠りとは折合いが悪いのである。

また、たとえすべての徳を持ったとしても、われわれはなおひとつのことを心得ていなければならない。それらの徳をも然るべき時に眠らせるということである。

それはこれらの美徳、これらのご婦人方が、たがいにいがみあわないためだ!

(中略)

いまわたしは明らかに知った。かつて人々が徳の教師を求めたとき、何よりも求めたものは何だったのかを。よい眠りを、人々は求めたのであり、そのために阿片の所得を求めたのだ!

名声高いこれらの講壇の件じゃたちにとっては、知恵は夢のない眠りであった。かれらはそれ以上の人生の意味を知らなかったのだ。

 

「ツァラトゥストラはこう言った」ニーチェ

 

快活に生きることは、何も難しいことじゃない。眠りの賢者にしたがえばいいのである。早寝早起きを心がけ、陽光をめいいっぱい浴び、懸命によく働いて、人の陰口は決して言わず、運動も忘れずに、趣味を豊富に持ち、よく笑い、毎日を感謝して生きることだ。夢を持ち、目標を立て、日々反省するとともに、感謝の日記をつけ、前向きに、明るく、楽しく、健康に、生きることだ。そうすれば心地よい眠りはやってくる。日常のさらなる深みへと昏睡してゆく。

だが、逃れられない不幸に遭遇したとき、痛みに耐えかねて目を醒ますことがある。心身をむしばむ悲痛を直視すれば、すやすやと眠っていられることが幸せの外殻だったと気づく。眠りを愛する者たちが眠りを愛そうとするのは、徳の殻に身を潜め、この世界に目をつぶっていたいと思うほど、悲痛を伴うものだからであろう。

 

眼が大海原を見据えたとき、その深淵に虚無をみるならば、たちまち人は生きる屍となり、大地を踏みしめる足は崩れそうになるだろう。眠りを愛するものの多くは、空虚な彼女を直視することを怖れる。今日、彼女の存在は絶対に口にしないことが暗黙の了解となった。国も、家族も、友人も、誰も彼女の存在を口にはするまい。次第に彼女の存在は忘れられるも、彼女は人々の背後から冷たい視線を送りつづける。

ますます眠りは人々に必要とされた。どこを見ても眠りの話で溢れている。国は国民を眠らせていようと、絶対に真実を明るみに出そうとはしないし、親類が集まれば、自分たちがいかに人生でよりよい眠りをしているかを互いに披瀝する。目を醒ましている者も、眠っているフリをしなければならないのは、起きている者の足音は、彼らの眠りを邪魔するからである。これは不器用な者を苦しめる、処世術というものである。

「皆が気持ちよく眠れる社会へ」がスローガンである。政治家の知恵は、いつもそうだっただろうか。よりよく眠ることが人生の意義となる。だが、眠ることが目的ならば、われわれは何をしにこの世にやってきたのだろう。眠らない部分にあるものを魂と言うのではないのだろうか。

 

2024.3.28

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