人生に意味はないなどと、まさか本気で思ってはないだろうね。[649/1000]

今朝、起きて間もなく、重たい瞼をこじ開ける、無邪気な朝日に思わず笑ってしまった。私は朝日をまえにして、笑ってしまうことがよくある。夕暮れや星屑を見て笑うことはあまりないが、朝日だけはどうも笑ってしまう。そして、笑ってしまうとき、私は三島由紀夫のこの一文を思い出した。私は、素朴な笑いが産み落とされる瞬間に、この世界が愛おしくてたまらなくなる。

人間は、朝の太陽が山の端を離れ、山腹の色がたちまち変わるのを見て、はじめて笑ったにちがいない。宇宙的虚無が、こんなに微妙な色彩の濃淡で人の目をたのしませるのは、全く不合理なことであり、可笑しな、笑うべきことだからだ。

三島由紀夫「美しい星」

 

「人生に意味はない」などと抜かす無神論者が、なんと幅を利かせる時代だろう。

虚無を明かりの下に引きずり出さないことは、今日の暗黙の了解ではあるが、このルールに従うならば、人は己の胴体に風穴をあけなければならない。なぜなら、胃袋に噛みつく虚無の存在をなきものにするためには、自分の胃袋ごとぶち抜く必要があるからである。

国はこれを巧みに扱うことを熟知した。国民の風穴に糸を通せれば、多くの人間を容易に束ねることができるからである。政治家の知恵とは、国民にパンを与えることであった。だが、今日の政治家をみるに、彼らの胴体にも風穴があいてしまっているようにみえる。”どこかの国”のというよりは、大いなる虚無の傀儡である。

 

私自身、風穴の人生に転機があったとすれば、虚無を真正面から直視したあのときであった。オーストラリアを西海岸から東海岸までヒッチハイクで横断し、最終地点のゴールドコーストから昇る朝日を拝んだ。朝日の息を呑む美しさは、旅の苦労のために何十倍にも膨れ上がったが、それゆえに明るみに出されてしまったのだった。私はついに、空洞の存在を無視できなくなり、空洞の中へ真っ逆さまに落ちていった。落ちた先には、暗く澱んだ沼があった。

今でこそ認めるが、私は傀儡だったのだ。私はこの世の虚無を愛することを知らず、暗鬱に沈殿した日々を2年ほど過ごすことになった。

 

「人生に意味はない」などと、まさか本気で思ってはないだろう。それが真から発せられる言葉なら、創造主が、昼と夜、空と大地、海と陸、人間と動物、木々と花々、そしてあの健気で無垢な目をした、罪のない小鳥を造り出したことを、どう説明するだろう。

人生に意味がないなどと思うのは、己の風穴を自覚しながらも、己の風穴から目を背けるための、合理主義に染まった絶望的虚偽でしかない。私には痛々しい悲鳴が聞こえる。偉大なる虚無の向こう側から。真なる鐘の響きが。魂の懊悩が。

 

2024.3.29

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