人間の森、インド。【インド紀行⑱】[633/1000]

海や雪を前にして、はしゃがない子供が子供らしくなように、洗練されすぎた人間は、人間らしくないのである。私がインドに抱いた感触は、人間がたくさんいるというものだった。インドに行けば価値観がぶっ飛ぶとよく言うが、私の場合は「そうだとも、そうだとも」と頷けることのほうが多かった。隙あらば、観光客からぼったくろうとする感覚も、シーツを替えていないのに替えたと嘘をつく感覚も、チャイが一杯10ルピー(17円)である金銭感覚も、50ルピー(85円)の屋台飯で毎日済ませてしまう感覚も、とにかくクラクションを鳴らしておこうという感覚も、犬やサルや牛がそこら辺にいる感覚も、路上で物乞いする感覚も、自分の信仰する神様を外国人に好きなだけ語ろうとする感覚も、バイクで誰かが転んだら、まわりの人間が一斉に助けようとする感覚も、つりせんをごまかそうとする商人の感覚も、それを許さない青年の正義感も、女性がサリーを纏い、その美しさにうっとりする男たちの感覚も、洗ったかもわからない手で小麦を平気で練りまわす感覚も、それを衛生的かどうかも気にせず、食えれば問題ないという感覚も、ケツなど手で拭けばよいという感覚も、すべてが「そうだとも、そうだとも」と涙を流したくなるような、人間らしいものだった。間違っても、冷めてはいなかった。人間の熱気に満ちていた、熱い熱い国だった。

 

裕福で教育をちゃんと受けている若者の層ほど、洗練されていた。彼らととても親しみやすかったのは、私も日本人として一定の教育を受け、進歩と平等の思想のもと、洗練されている者同士だからである。彼らと接している間は安心であった。まるで同じ国の人間であると錯覚を抱くほどの居心地のよさがある。われわれは「洗練された国」に国籍を同じにしていた。世界共和国の一員であった。

 

洗練はいいことにちがいない。物的に満ち、教育は行き届き、平等と人権は守られる。だが私は、人類から素朴さが失われることを想像するのがやはり怖ろしい。文化が失われれば、世界のどこに行っても、どこか冷めていることにならないだろうか。サリーのような民族衣装は消え失せ、皆が同じように、西洋の服を着ている世界。へんぴな田舎にさえ、マクドナルドやケンタッキーがあり、米やマサラの代わりに、パンやハンバーガーやパスタばかりが食される。文化が失われれば、旅もなくなる。恋も宇宙もなくなる。極端な妄想が入っていることは承知であるが、世界が似たような感じになるのは、安心だが怖ろしい。私は人間でありつづける道を模索したい。日本に帰れば、間違いなく失われていく、この人間の熱を燃やしつづけたいと願う。

 

2024.3.14

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