懸命に生きた日には美味いもん食って美味い酒を飲もう[294/1000]

汗水垂らして懸命に働いて、懸命に生きた日には、美味いもん食って、美味い酒を飲もう。大変な思いをした日には、いつも以上に自分を労っても罰は当たらない。逆に、楽ばかりして良い思いしすぎちゃったなってときは、自分でもいけねえって分かってるんだ。

この生命はあらゆるものとの関係の中に生きている。関係を貪れば罪の意識が生じるのだし、関係を弁えれば徳を積んで心も気持ちが良い。快楽が罪悪の味になるのか、慰めの味になるのかは、全部、関係の中における、自分の態度次第だ。

 

不幸にあったときに、良い思いしても誰も責めやしない。むしろ、「ああ大変だったね」と気の毒に思ってくれる。でも、もし不幸の中、不平不満をこぼさずじっと悲しみに耐えて、苦しみに誠実に生きることがあったなら、そういう人間を神様(宇宙)は見捨てないだろう。なぜなら、生命は必ず何かしらの関係の中に生きてるのだとしたら、これは宇宙に対して徳を積んだことになるだろうから。

そういう人間の極地を、ドストエフスキーは、「神がかり行者」とか「聖痴愚」とか言ったのかもしれない。苦しみにひたすら耐えることを美徳として、神を想う(徳を積む)ことだけに、人生のすべての関心を奉げるのだ。地上の幸福のすべてを投げ捨てるのは、深い深い信仰心がなければ、なせる業ではない。

 

私は信仰に生きたいと願う一人である。しかし、見えない価値を信じる強さを持たず、地上的な幸せを欲し、堕落する凡人でもある。

神がかった行為に、神秘的な美しさを感じながらも、堕落した人間である以上、「汗水垂らして懸命に働いたときには、美味いもん食って美味い酒を飲む。」という凡庸な振る舞いに、宇宙との関係を築かざるをえない。徳を積むことは目指されるべきであろうが、とりあえず関係だけには忠実であることだと思う。

 

関係こそ宇宙の心だと思う。私は関係を窮屈に感じて、すべてから逃れようとしたことがあったけれど、結果的に愛からも自由からも遠ざかっていった。今もまだその残骸で、関係を築くことに億劫になっている自分がある。関係の中でも、神との関係を築きたいのだし、神との関係こそ、大黒柱のように、すべての関係の土台となっていくものだと信じる。人との関係も欲する。まだうまく言葉にならないが、人との関係にも、私は個人的に向き合わねばならない宿命的なものを感じている。

 

まだ制服が身体に馴染まない高校生が、春の祝福を受けて登校している。桜は満開だ。さあ、一週間を始めよう!

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