越えてはならない一線を、笑いながら越えていけ[440/1000]

自らを教条に縛られた善人だなと思うことが多々ある。こうして自虐的に善人だと嘲る態度もまた、内なる善性によって行われることかもしれない。気乗りしない日も、何かしらの言葉を綴り、気づけば律義に440日目までやってきたが、私はこれまで継続した自分を讃えることよりも、これまでに、これを打ち破り、捨て去ることができなかった己の未熟さのほうが目についてしまう。

自虐性と書いたが、これは発展すると被害者意識に通ずるものである。たとえば、「汗を流し懸命に働くことは善である」という教条は、怠惰な自分を攻撃し破滅へと追いやろうとする。それでも道徳意識のもと、自分をさらに追いやると、今度はどうして自分だけがんばっているんだ、という被害者意識がうまれる。

そんなとき、自分を助けてくれるのは、悪の力だったりする。絶対に越えてはならないと信じていた一線を、平然と、むしろ笑いながら越えていくのである。これを外の世界に置き換えるとわかりやすく、時に自分では絶対にタブー視していることも、笑いながらそれを行う人間を見ると、世界がひっくり返るような衝撃を受ける。汗水流して懸命に働かなければという日本人らしい労働観も、アメリカに行けばもっと自由な勤務態度がひろがっている。

善と悪は、奇妙だなと思う。善人性によって自分は殺されかけるも、それを救うのは悪の力であることも少なくない。自分がしてはいけないと思うことを、平然と、笑いながらやりのけてしまうである。道徳を人間を破った人間は、当然「ダメな奴」であるが、結果的に悪の力で己の教条を打ち破いたほうが、世界が開けたような爽快さを味わうのである。(しかし、行きすぎて社会のルールに抵触すれば、当然罰せられる。)

自分の中に天使と悪魔を飼っている。しかし、天使は力を持ちすぎれば、悪性と化す。天使に力を貸すでも、悪魔に力を貸すでもなく、自己のうちの常に劣勢なほうに力をやることだと思う。その選択がいちばん肚に力が入る気がする。

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