生命と宇宙の間で行われている恩の貸し借り[290/1000]

「働かざる者食うべからず」という言葉を、子供の頃父から教わった。

今では、この言葉が意味するのは、生命と宇宙の間で行われる、恩の貸し借りなのだと分かる。文明のために働くから、見返りとして食わせてもらえるのであって、働かなければ食えないのは当然のことだということ。

 

私は、引きこもり鬱で働かない時期が長いことあって、その間は親に食わせてもらっていたが、食うことに負い目を感じていた。働けなくても、人間食べなければ死んでしまう。働けなくても、食わないわけにはいかない。そうして、自分は食うに値しない人間だと、心の深い所で負い目を感じながら食わさせてもらっていた。それでは働けない人間が気の毒だと、優しい方々は思うだろうが、負い目を感じるからこそ、一人前でない己を恥じ、食べさせてもらえることの温情に涙を流せるのだと私は思う。

 

一食を人から頂けば、そこに恩が生じている。働けない子供は親に食わせてもらう代わりに、大きくなって働けるようになってから、長年の恩を返していく。恩を感じることなく、食うだけとなれば、それはただの貪りである。恩の関係は失われ、知らず知らずのうちに、心は細く、関係も貧しくなっていく。

感謝して食べなさいとよく言うが、厳密には「一食の恩を自覚しなさい」ということだと思う。恩を受け取ることを自覚するから、恩を返すために人様のために頑張って働こうと思える。

 

飽食の現代では、一食の重みはかなり軽くなった。大して働かずとも、いっちょ前に食べられるようになったし、食べ物の好き嫌いを個性だと言う人間もいる。物質的には豊かになった代わりに、食わせてもらうことの恩の意識も薄れ、自制がなければすぐに貪ってしまう。

私は働いていない時期が長いことあったことに加えて、1日3食の常識を破って1日1食で生きている。生命と労働と食事の関係について、若干独特な持論がある。あくまでただの持論であるが、ここに書き残してみたい。

 

いつしか私の中では、”4時間の労働が1食に値する”という感覚が生まれた。4時間働けば1食食って良し。8時間働く人間は2食を食うに値する。12時間働くなら3食に値する。16時間働く人間は4食を食うに値するが、もし16時間の働き者が3食しか食わなければ、生命と宇宙の間に1食分の貸しを作ったことになる。すなわち、これは徳を積んだことを意味するのだと私は思う。労働よりも食うことが多くなれば、宇宙を貪ることになる。

 

あらゆる宗教で、断食が行われているが、食を減らすことが神に通ずるという宗教的な感覚が、私は何となく分かる。魂の価値を重んじることは、物質主義の否定であるから、食を断つというのは理にかなうのだ。これを、恩の貸し借りという観点にあてはめてみるなら、神のために働きながら、食わないことで神に徳を積んでいる、ということになるのではないか。

 

生命と宇宙の間で行われる恩の貸し借りが、働かざる者食うべからずという言葉である。働かなくても、親切な人に食わしてもらえる場合も起こりうるのは、別のところで恩を貸していたり、過去に徳を積んでいる場合が多いのだと想像する。生命と宇宙間の見えない部分で、色んなやり取りが行われて、その一部が食うことや食わせてもらうことにあらわれている。

 

恥ずかしくも持論を展開したが、私は道徳家になりたいわけではない。実際、こうした道徳を達成するのは困難なことである。坂口安吾が、人間は堕落するというように、心が不安定になれば、誤魔化すために食ってしまうのが、人間の弱い所であるし、食い過ぎたときには、もう絶対に食わないと誓っても、いざ時間が経てば、同じように食ってしまうのが人間である。

だからといって、一切の恥が失われれば、インモラル(非道徳)ではなくアンモラル(無道徳)となる。飽食の現代、食うことの道徳はほぼ失われているが、私は生命が生きることに直結する食うことに関しては、道徳をもちつづけたいと願う。働かずして食ってばかりいるなら、自己を恥じてこそ、生命は生きるのだと思うし、そもそも本当は食うことなど、考えずにいられたらと願う。考えるということは、働くよりも食うことのほうが上回ってるだろうから。

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