死を想うことだけが、この世の虚無を打ち砕いてくれる[289/1000]

甥をもった夢を見た。赤子はとても可愛く、周囲は私に似ていると言う。私は無垢で純粋な甥を見て、この上ない幸せな気持ちになりながら、「お前はちゃんと幸せになれよ」と伝える夢だった。こんな夢を見たのも、昨日、寅さんをみた影響にちがいない。寅さんは、妹さくらの子、赤子の満男とはじめて対面したとき、周囲が寅さんに似ていると言う。それを聞いた寅さんは、満男に語りかけるように「お前は俺みたいになるなよ」と言うシーンがある。

私の見る夢は、9割方悪夢で、こうした幸せな夢はほんとうにたまにしかみることがない。絶望が深く、希望は掴もうとしても雲散霧消してしまうような状態だからだろう。

 

朝の目覚めのうとましさはどうだ。

わずか一つの願いも叶えてくれようとはせず、

どんなたのしみの予感さえも

手前勝手な文句をつけられて打ち消されようとし、

胸に創造の意欲が動いたとて、

雑事俗用でたちまちそれもしぼみ萎える、

そういう一日がまたやってきたのだと思うと、

そういう一日をまた迎えるのかと思うと、

己はほとんど苦い涙をこぼしそうになるのだ。

ゲーテ,「ファウスト」,(新潮文庫)

 

悪夢に起こされる私もまた、ファウストのように厭世モードから始まる。雄々しく昇る朝日を見ても、森のほうからピヨピヨと鳴く小鳥を聴いても、心には照らしきれない深い森があるようだ。

この深い森を支配するのは悪魔で、悪魔を心に住まわせているかぎり、虚無は訪れる。朝日が昇る、それがどうした。小鳥が鳴いている、それがどうした。欲望が満ちて心地よい、それがどうした。仕事がうまくいく、それがどうした。金が増える、それがどうした。幸せになれる、幸せになんの意味がある。

悪魔によって地に堕とされるとき、これから始まろうとする1日が虚無となり、憂鬱以外の何物でもなくなってしまうのだ。

 

虚無に耐えられない私は、死を想うことに救いを求める。死を想うことの中に、悪魔を打ち砕く黄金の槌と、私を永遠に導く神を見つけたいのだ。

死んだ人間の言葉が特別な波動を放つのは、死んだからに他ならない。あの世から魂によって語りかけてくるものだけが、この世の虚無にぶつかることが許されるのだ。どんなにいいものでも、生きているかぎりはまだ未完であって、死んでようやく呪物として完成する。

だから私は、本にしても映画にしても音楽にしても、死んだ人間が残したものに触れていたい。

 

野に咲く小さな花を一輪摘んで、部屋に生けるようになってからは、いくらか精神が安定した。私はこの花を見る度に、死を想う。

花が咲く姿はもちろん美しいが、枯れる姿も美しい。どちらかというと、残酷だけど、今は枯れる姿をより多く望んでいるのかもしれない。美しく咲いて、美しく枯れるのを見て、ここに永遠を感じたいのだと思う。

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