たかが人間、されど人間[137/1000]

137日目。今日は朝から何もかける気がせず、気づけばお昼をまわった。

ドストエフスキーの罪と罰を読んだら、なんだかぐったりしてしまい、諏訪湖のまわりを適当に散歩して、それでも何も書く気にならなくて、適当な場所で腰を下ろして、顔面で浴びる陽の温かさと冷たい空気で中和された心地よさの中で、しばらく放心状態になっていた。

 

これまでも、まったく書ける気がしないことは多々あってそんな時は、「自分のために書く」という一点に支えられてきた。この一点の先端をみれば、忍耐の先にある「魂の鍛錬」しかない。何度も、書くことを辞めて楽になっちまえと自分が囁くが、仮にやめたとしても、また書きたくなるのが関の山だった。

苦しくなれば楽を欲し、楽になれば苦を欲するのは、魂と肉体の拮抗作用に振り回されているにすぎない。そうして振り回され、落ち着きのない生き方をしても今の時代では生きていくこともできる。しかし、私が目指したい場所は、この拮抗作用の中心を貫かなければ、いつまでも辿り着くことができない。

 

これは何かを辞めて、場所を変えて違うことを始めたとしても、必ず通らなければならない道だ。一生涯に渡って人間に与えられた試練なのだ。

 

こうして毎日、言葉を書きながら、自分の言葉にいっさいの自信がない。自信がないから、これを読んでいる人がいることを知ると「私のブログなど読まなくていい。私のブログを読むその五分間を使って、時に洗練された偉人たちの本を読んでくれ」と毎度思う。

読者を抱き締めようとしながら、読者を跳ね返したくなる。跳ね返して、跳ね返して、跳ね返して、ついには誰もいなくなってしまえばいい。きっと私は深い孤独に苛まれるだろうが、それが私にとっても、読者にとっても一番の道じゃないか。

 

私は自分の存在に自信がない。今日では自信がないことは、許されないことように捉えられることもあるが、自信がないことのほうが健全だと思うのは私だけだろうか。

我々は、神ではなく、たかが人間なのだ。欠陥だらけで今日も過ちを犯し、魂の崇高さを忘れては、快楽に溺れ、自らを欺き、人を裏切るような欠陥だらけの人間だ。どこに自信を持てる理由なんてあるのだろう。キリストは、人は生まれながらに罪人だと言った。魂の鍛錬の道を歩むかぎり、自信なんてものは傲慢にならないかぎり持てないのではないのか。

たかが人間、されど人間なんだ。

 

精神修養 #47 (2h/102h)

魂は肉体を拒絶するなにかである。肉体は快を近づけ、嫌悪を遠ざけるのなら、魂は快を遠ざけ、嫌悪を近づける存在だといえる。瞑想外においても魂の修行を続けるならば、このことを覚えておかなければならない。毒を取り入れ、蜜を吐き出す。

不安は未来を憂うことから生まれるというが、少なくとも今朝の私は、今ここの不安を避けるために未来に逃避した。独り瞑想をする日々は孤独である。過去を回想し、未来に憧れる心象風景には、必ず人がいる。私はそこで孤独感を紛らわそうとしている。

 

[夕の瞑想]

心は肉体と魂の軋轢によって生まれるものだと思う。肉体と魂の「摩擦」ともいえるかもしれない。厳密には、人は軋轢によって心を自覚してる。

摩擦がなくなれば、心が存在しながら自覚できない状態(つまり無我の境地)になるんじゃないかな。あくまで考察だけれど。

 

どうして瞑想をしていると、この20年間、一度も思い出したことのなかったような過去を詳細まで思い出すのだろう。この現象がとても興味深いが、心が呼吸をしていると考えると、筋が通ることが多い。

吸収がとまれば、排泄が始まるのは、人間の根本原理である。私はこの現象に、過去に吸収した体験が放出されているような感覚をおぼえる。

また死ぬときに走馬灯を見るということについても、これに当てはめると筋が通ることも多い。心が死滅する前に、これまでの溜めこんだ経験を、大放出しようとする。だから過去の忘れられていたような出来事までもが一気に思い出されるんじゃないかな。

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