隠遁生活でしか味わえない奇妙な感覚[499/1000]

隠遁生活ならではの、奇妙な感覚がある。完全な隠遁生活をしていると、今がほんとうに令和であるという確信が揺らいでくる。つまり、今が、鎌倉時代とも、江戸時代とも思えてくる。自分と時代を結びつける「文明の生活」を失うと、不思議とそんな感覚になる。

耳をすませば、すぐ下の甲州街道で、参勤交代の行列の足音が聞こえてきそうだ。茶屋で休憩している者もいる。もしくは、今頃、京都の山では鴨長明が方丈庵を建てている真っ最中かもしれない。

 

こんな想像を打ち砕くのは、十二時を知らせる市内放送と、福祉国家らしい救急車のサイレンである。私は令和に連れ戻され、「自分」は時代と結びつき、令和の宿命をあらためて負わされるのだ。

想像に浸るとき、私の生命は確かに時間を旅している。どの時代とも確証の得られる客体はどこにもなく、私は時代の宿命から解放される。そして、現実に連れ戻されるとき、時代が浮遊した生命をはじめて捕らえ、その結び目に宿命を負うのである。

 

一種の現実逃避である。だが、これは隠遁生活でしか味わえない、奇妙な感覚だ。朝起きて、意識が定まらない束の間、魂が「自分」という存在を捕らえる瞬間と似ている。

 

ひとつ、こういうことが言えないだろうか。

生命は必ず時代の世相によって着色されており、完全に山ごもりをするほかは、無色透明な存在たることはあり得ないと。着色された生命は、自分なりの美しい色に染まろうと、時代の宿命に奮闘しながらも、再び透明化することに憧れている。

魂についても同じである。「自分」という存在に取り込まれながらも、「自分」という存在から超越することを望んでいる。ゆえに、魂は肉体を擲つのだ。

こう考えると、生命も魂も、自由に焦がれた、反抗的な存在と言えるかもしれない。

 

宿命あっての生命だ。宿命なしにはありえない。そして、現実とは、宿命を背負って時代と生命を生きることだけだ。宿命を愛す。憎き虚無も、死の衝動がの失われた泰平の世も、倦怠に満ちた福祉国家も、隠遁せざるを得なかった弱き「自分」という存在も、すべてを背負って前に進んで行くしかないのである。

 

【書物の海 #29】死ぬことと見つけたり, 隆慶一郎

もし、毎朝布団の中で、入念に死んで、一日を「死人」として生きられたら人間はどうなるか。死んでいるのだから、これ以上怖れるものなどなにもない。行動は瞬時に起こされ、直線的で、自由である。

この葉隠の思想は、理想論としては分かるが、「現実は」とつい言い訳をしてしまうのが肉体である。その肉体を子供の頃から、毎朝、死んだつもりになった訓練をしていれば、人生はかぎりなく、「魂」の状態に近づいていく。これは、損得でやるものではない。損得は、肉体である。ではなく、義をまっとうするために行うのである。ゆえに美しいが、怖ろしい。だが、自由だ。直線的だ。宇宙に真っすぐ伸びていく放射だ。

そんな生き様が、本著で躍動している。

「殿の御一族を撃ちゃあしませんよ」

杢之助のくだけた口調だった。

「では誰を撃つ?」

「老中松平信綱」

元茂はとび上がったと云っていい。思わず立ち上がっていた。杢之助を指さし、叫んだ。

「捕えろ」

萬右衛門が袂から懐炉をとり出し、蓋を開いた。仲には灰の中に火をつけた火縄が埋められている。次いで、懐中から椀を合わせたような球形のものをとり出した。言わずと知れた炸裂弾である。

 

2023.11.1

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