クビになる覚悟がなきゃ仕事にならん[138/1000]

放浪者に見える私も、一応働いている。引きこもり鬱のときに友人に拾ってもらった、立ち上がったばかりの小さな会社で。今は私と代表の2人。働いて1年近くなる。1年近く引きこもっていた私は、結果的に友人に助けられた。また病人だった私を雇ってくれた今の代表にも恩を感じている。(もっとも私が鬱だったことは代表は知らないと思うが)

 

1日3時間程度しか働かないことと、場所も選ばないこともあり、この1年は好きな場所に行きながら働いてきた。またこうした浮世離れした記事を投稿できるのは、「社会人モード」とそれ以外を器用に使い分けてきたからに他ならない。ただ、最近は仕事が膨れ上がってきたことと、私自身、魂の価値を重んずる生き方が急激に体内に浸透してきたこともあって、これ以上器用に演じ分けることが難しくなってきた。

そしてついに、昨夜暴発した。私はある部分で自分を誤魔化していると知りながら、誤魔化していることすらも誤魔化していたという事実を直視せざるをえなかった。

 

働き方を変えなければならない。私なりに1つの結論を出した。それは「クビになる覚悟がなきゃ、いい仕事なんてできない。」ということだった。これは言葉のとおりで、職を失うことをおそれ衝突を恐れていては、本当の意味でいい仕事はできないということだ。魂の鍛錬を行うなら例外はない。ましてやそれが仕事なら、なおさらだ。

そこで、クビになることをゴールにすることにした。これは怠慢でクビになるという意味ではなく、信念を突き通し、衝突した先にクビになるのなら仕方がないということだ。クビになることをゴールとしなければ、そのように在ることはできない。

 

「武士道というは死ぬことと見つけたり」の言葉がいつも頭にある。仕事においても死を選んでいくとは、クビに向かっていくということではないか。人間関係の破壊を恐れずに、真正面からぶつかっていくということではないか。

こびへつらうなんて卑しいことは断じてするな。そんな生き方は、肉体は許しても、魂は許さない。気高く生きてみろ。クビになってみろ。そして一文無しになって野垂れ死んでみろ。その一筋が、自己の魂を貫徹する生き方なら、何よりも誇り高いじゃないか。

 

精神修養 #48 (2h/104h)

魂は肉体を拒絶し、肉体は魂を拒絶する。両者が常に拮抗する様子を静観しながら、瞑想において目指す方向は魂が自己を超越することだと思う。

魂の超越は、思考や感情に反応し、振り回されているようであれば、一生経っても成し得ない。なぜなら、思考や感情に反応している瞬間は、逆に、肉体が魂を超越している瞬間だからだ。これが物質主義であることは言うまでもない。

静観においてのみ、魂による自己を超越が始まる。だから足が痛くとも、逃げようとせず、決められた時間は座り続けるのだ。

 

[夕の瞑想]

仕事で誤魔化していた自分が暴発したのは、浮世離れの自己と、俗世との間に生じた摩擦そのものだったと言える。まさに魂と肉体の関係そのものだった。

夕の瞑想は、湧き上がる怒りや悲しみや、自分の不甲斐なさをただじっと観察しながら、瞑想というより私がどうあるべきかを考えることで精一杯だった。クビになる覚悟でいなきゃ、いい仕事はできん、という1つの言葉が頭に響く。

 

「毎朝毎夕、改めては死に、改めては死に、常住死身となる」「必死の観念、一日仕切りなるべし」

毎朝、毎夕、クビになる覚悟をもって、仕事に取り組む。円満退社なんて真っ平御免だね。自己の内で聖戦を繰り広げるなら、血は避けられない。

DO OR DIE. DO OR DIE.

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