神は、昼と夜と同じく、労働と休息とを交互に人間に課しておられる[644/1000]

神は、昼と夜と同じく、労働と休息とを交互に人間に課しておられる。今や眠りの露が時刻にふさわしく降りてきて、柔らかく、重く、われわれの眼瞼を眠りへと誘っている。他の生きものは別に仕事もなく、ただぼんやりと終日彷徨っているにすぎず、したがってそれほどの休息も必要としないかもしれない。しかし、人間には、日々定められた心と体の仕事というものがある。それが人間の尊厳を示しており、人間の生き方のすべてに対する天の配慮を示している。他の動物は働きもせずただうろついているだけで、したがってその行動に対しては、神は少しも気にかけておられない。ところで、明日は、爽やかな朝が東の空を幾条もの曙光で美しく染める前に起き出して、われわれは楽しい労働に取りかかろうではないか。そして、あそこにある花の咲きこぼれている四阿や、われわれの真昼時の散歩道であるかなたの緑の小道、の手入れをしたい。

ジョンミルトン「失楽園」

 

人間には仕事がある。仕える事と書いて、仕事である。自己から離れ、より大きなものに仕えて働くことが仕事である。仕えて合わさること、と書いて仕合せである。人間の仕合せを考えるに、仕事をなくしてはありえないのは、仕事によって人間は自己犠牲をおぼえるからである。自己を退け、自己以上のもののために汗を流すとき、仕え、合わさっていくのである。

 

ここに人間と動物の違いがある。動物は自分のために、好き勝手うろついているだけであるが、人間は日々の苦しい仕事をこなしていかなければならない。定められたことを毎日きっちりこなしていかなければならない。気分が追いつかないときも、やらなければならない。病気になってもできるものなら働かなければならない。そうして自己の外側に自己は収斂していく。自分と世界が一つに合わさってゆく。

 

自分を大切にしているように思われる自己固執が、かえって自己の孤立をいっそう際立だせてしまうことがあるのは、仕える対象を誤っているからである。家族を持つ父親は妻子のために毎朝せっせと仕事に出かける。家族を持たない孤独な人間は、神や国や主のために働く。そうして自己から離れ、苦しかろうと、国のため、社会のために働くうちに、座禅僧のように世界と一つになっていく。

 

アダムは、仕事を広く捉えている。花の咲きこぼれた四阿や、散歩する緑の小道を手入れすることも、れっきとした仕事である。誰かに雇われることや、いい稼ぎになることは必ずしも必要ではない。それよりもずっと大事なことは、気分の善し悪しによって差分を設けることなく、どんな仕事であっても一律にこなしていくことである。

一様に律するのである。好き勝手さまよう動物に対し、人間は規律を重んずるからだ。ユダヤの旧約の時代では、人々は律法を重んじ、今日は法律のもとに生きている。「律する」という言葉には人間に宿る動物性を、厳格に縛る働きがある。人間が原罪を抱えているという性悪説の上にたち、善へ善へと向かいつづける。

 

一方、昼と夜を創造した神の意図を汲むならば、休むことも義務(義の務め)である。昼と夜の境がはっきりとしていた、小さな村の百姓と比べれば、夜を制した今日は、人々は働きすぎてはなかろうか。胃に風穴が開いてしまうと、働かなければ不安になる。だが、日が暮れたらちゃんと休まれたい。アダムがいうように、これは天の配慮でもある。睡眠は素朴で最上の慣習だ。

 

ああ、だがしかし、私は今、あまりにも教条なことばかり書き綴ったことを、猛烈に悔いている。働きたいけど働けない。休みたいけど休めない。そうやって私自身、昼と夜の法則に背を向けつづけて生きている。正しいことは正しいと分かる。だがどこに行っても悪魔に首根っこを掴まれつづけている。こんなもの振りほどいて神の傍で人間らしくありたいと願う。あらゆる弱さから守られ、己の貴きを掴めることを願う。

何はどうであれ、説教じみたならばお詫びしよう。ただ一つ、私は人間の力だけを信じつづける。

 

2024.3.24

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