今日を生きる我々はまた一つ年を越す。その事実だけでも尊いのだ[194/1000]

今年が静かに終わろうとしている。

朝、上裸になって庭に出ると少しヒンヤリとしたが、耐えられないほどの寒さではなかった。庭の水道をひねって風呂場から持ってきた洗面器に水を汲み、後ろの首元めがけて水をぶっかける。これを三度繰り返す。大晦日に水行を行うのは、1年の塵垢を落とす意味が神道にはある。確かに水は冷たかったが、過去に行った真冬の滝行と比べると、遊興のレベルであった。

 

自分を叩きのめした感覚はあまりなく、濡れた身体の水を拭いた後に、清々しさを感じている自分を見ると、我ながらタフな身体だなと思いながら、もっと浴びても良かったかもしれないと思った。不十分であったが、冷気と冷水にさらされて、肉体が温まろうと温まろうと活き活きし始める感覚には、健康の本質のすべてが詰まっているように感じていた。この感覚を得られただけでも、水を浴びた甲斐はあった。

 

中村天風が絶対積極の精神と言ったのは、真冬に上裸となり威勢よく水浴びをするような、威勢よく死に向かおうとする心持をいったのだろう。水を浴びれば肉体が活き活きし始めるように、振り子を死の方に蹴り飛ばせば、その反動で自然と生き返るのは自然の法だと思う。

病は気からと言う。元気があれば何でもできるとアントニオ猪木は言う。同じように、積極精神があれば世界に怖いものなど一つもなくなると思う。武士は死すらも積極精神によって乗り越えた。怖さはいつも、消極精神の裏に存在していて、最後の一滴まで消極精神を搾り取ってしまえば、まさに死身となってぶつかっていける。

 

積極精神は消極精神を体外へ叩き出せば、自ずと体内に流れ込んでくるものだと思う。

人間の身体はよくできている。勢いよく水を浴びれば、肉体は自然と温まろうとする。何もしなくても宇宙からの授かりものとして、身体には免疫力や自浄作用が働いている。水を浴びるとは、自分を半殺しにして、免疫作用を呼び醒ますようなものなのだろう。

ちょびちょび水を浴びていても、消極精神は出ていかない。腹から声出して、勢い任せに何度も何度も水を浴び、消極精神は最後の一滴まで絞り出されていく。そこまで終えれば、私の仕事は終わりで、後は肉体を創造した宇宙の神秘に任せていれば、肉体は元気となり積極精神は体内に流れ込んでくる。そんな不思議な原理が働いていると感じている。

 

今年が終わる。一年の振り返りはやめておこう。既に人生の計画性はないようなもので、今年がどうだったから、来年がどうであるという話はなく、瞬間瞬間、死に向かって行動を紡いでいくしかない。行動の一点に関して言えば、十分とも不十分ともいえる一年であった。何より、生きて大晦日を迎えていることが、既に死ねていないではないか。完全に満足できるのは、本当に死ぬときであって、生きているかぎり、己の不十分さを認めざるを得ないのだろう。

いずれにせよ満足はない。しかし、既に動かなくなったこの一年が宿命として刻まれた事実には、誇りを感じていたい。今日を生きる我々はまた一つ年を越す。その尊い事実を祝う形として、今年最後の投稿を締めさせていただく。

 

精神修養 #105 (2h/218h)

・緊張していることに気づいて、寒さの中に溶け込んでいくと、ようやく生にしがみついた自分を死なせられる感覚を得る。

・緊張とは生の衝動に傾いた肉体が、死に向かう過程に生じるもの。緊張は、現在地が生である証明である。

・緊張と出会う時はチャンスだと思いたい。緊張は自分を死なせられるチャンスである。

・自分にこだわらないようにしようとするのが、既に自分へのこだわりであるという罠にかかりやすい。

・宮沢賢治の雨にも負けずが何度も頭に再生される。自分など勘定に入れなくともよい。透明な存在になることにひたすら焦がれている。自分を勘定に入れないという勘定がいつも邪魔をする。ただ透明になりたい。

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