生きているだけで丸儲け!生きていることそのものを神様は受け止めてくれる

新潟県上越市の海にいる。せっかく海に来たというのに、暑さにすっかりやられたのか、身体が怠い。

先日、東南アジアを一緒にバックパッカーした岐阜の友人と電話で話をした。彼の声はとても落ち着く。生まれた土地が近いからか「家」に近い安心感をおぼえる。そんな彼に毎日ブログの投稿を初めて今日で10日目になることを伝えると、「のってるね」と彼は言った。私は「のってるから書いているのではなく、書いているからのっているのだ」と答えた。

 

ハハハと笑うから幸せになる。相手の立場から世界を体験するから、苦労が分かって感謝の情がわく。運動するから、全身に血が巡って身体も軽くなる。状態なんてものは、実践の後についてくる。ありがとうと声に出して伝えることも、瞑想をして思考と感情を区別することも、全部実践から始まる。外を散歩することも、ゴミを拾うことも、自分から挨拶することも、ご年配に親切にすることも、両手を空に向けて思いっきり広げることも全部実践だ。

実践を忘れると、あらゆることが天命に左右されると思うようになる。自分は愛のない人間だとか、親に恵まれていないだとか、力がないだとか、ついていないだとか、才能がないとか。被害者意識が顔を出す。与えられない苦しみばかりに苛まれる。

私自身そんなことを、何度も繰り返してきた。自分の舵取りは自分でやりたい。アップダウンの激しい気分に振り回されるのは、もうお腹いっぱいだ。手を動かすことが解決をする。足を動かすことが解決をする。すべては実践から始まることを忘れちゃいかんぞ!というわけで、今日も書くぞ~!

 

上越市から見た夕日。久しぶりに眺める海に沈む陽は、とても美しかった。

最近はスマホのカメラ性能が良くなりすぎて、実物よりも綺麗にとれてしまうなんてことも起きるが、本当に美しい景色はスマホでは捉えきれないことを再認識した。写真を見れば、光を視覚情報として捉えることができる。しかし光に包み込まれる体験は、その場にいないとできない。情報は簡単に忘れてしまうが、体験は心に残り続ける。

 

日の出は、世界の気の力が陰から陽に転ずる瞬間だと、本で読んだことがある。日の入はその逆で、世界の気の力が陽から陰に転ずる瞬間だ。私は1人で過ごす時間が長くなり過ぎた時や、静かに内省して過ごす時間が長い時に、身体が朝日を希求するのを感じる。反対に、よく動き、よく人に会い、よく話した日ほど、夕日が身体を労ってくれるように感じる。

その時々の自分の身体のバランスと調和する方向に、世界の気を取り込んでいるのではないか、そんな仮説をもとに、最近は会う先々の人に「朝日が好きですか、それとも夕日が好きですか?」と聞く。ぜひあなたのお心も聞かせてください!

 

昨日は何か大したことをしたわけじゃない。褒められたこともなかった。もっと頑張れたんじゃないか俺、みたいな微妙な感覚だった。

でも夕日を見たら、そんな疑念が瞬時に消えて、1日が全肯定されたように感じた。神様がこんなご褒美を与えてくれたのだから、間違っているはずがないと確信できた。時折、こんな物凄く大きな自然の力に出会う。

太陽を見つめ過ぎたのか、目がぼやけてしまって、完全な日の入まで3分の1くらいになったとき、太陽が大きなスライムに見えた。少しずつ少しずつ海に沈んでいく様は、「もう疲れた!オレ帰る!」とスライムがいじけて地に潜っていくようで、思わず笑ってしまった。

 

生きているだけで十分だと確信が得られなくなるときもある。でも神様は生きているだけで十分だと言ってくれる。生きていることそのものを受け止めてくれる。なんなら、スライム姿になって道化まで演じてくれる。私はバカだから、神様の言うことを信じるぞ。生きているだけで丸儲け!

よ~し今日もてきと~に生きるぞ~!ばいばい!

【0円で生きていける拠点づくり】

森の中に瞑想小屋を建て、家を開放するのが直近にやりたいことです。

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