もっと素朴に、健気に、自然に笑えたらと願う。[583/1000]

後ろの席のおじさんが、私にライターを見せ、盛んにジャポン、ジャポンと言う。これは日本製だぞ、と言いたいらしいのだ。受け取って、底の刻印を見ると、「MARMON」とある。そんな会社の名は聞いたこともない。しかし、これは日本製ではないとは言えなくて、つい、イエス、イエス、よく知っていると言ってしまう。

沢木耕太郎「深夜特急5」

 

沢木さんの「深夜特急」を読んでいると、つい可笑しくて吹き出してしまう箇所に何度も遭遇する。上に紹介したおじさんがライターを日本製だと言い張る場面は、つい笑ってしまった場面の一つだ。

私は日本のテレビの笑いが好きではない。小学生や中学生のときには、芸人を真似事が学校で毎日のように流行っていたが、テレビのお笑いに腹を抱えて笑ったことは一度もなかった。今でこそ言葉にできるが、洗練されすぎたお笑いは、私の性に合わなかった。上に紹介したおじさんの話は、なんとも健気で可愛らしいではないか。おじさんは決して、人を笑わせようとしないが、「そうだとも、そうだとも。」と腹を抱えて笑うことができるのだ。

 

文学を読んでいると、文学では当たり前のように使われるも、今日ではほとんど使われない言葉が沢山あることが分かる。

たとえば「道化」がその一つだ。シェイクスピアの「リア王」では、リアの心情描写を「道化」に語らせているし、ゲーテの「ファウスト」の冒頭では、詩人と道化の論争から幕が上がる。

「道化」とは今日に馴染みの言葉に思われるのは、社会が道化の面構えをものにしすぎて、道化を認識できなくなっているからではなかろうか。江戸時代において、芸人は士農工商ではない身分外身分であったといわれているし、何の本であったか忘れたが、中世ヨーロッパの貴族に対して、芸人だけは無礼講が許されたという箇所を読んだことがあった。

 

今日、笑いと言えば、誰しもがお笑い番組の「道化」をイメージするが、もともと我々は、道化の外側にある素朴な笑いを持っていた。まっとうに、精神性高く生きるほど、道化のくだらなさはますます際立った。ある意味、彼らを見下しながら、まっとうに生きる人間は気高くあろうとした。道化の身分外身分とは、ある意味、精神高くあるための必要悪だったのだろう。断じて、すべての人間が道化ではなかったし、道化を尊敬する存在でもなかった。そして、笑いは必ずしも道化のなかだけにあるのではなく、冒頭で紹介したおじさんのように、健気で可愛げのある可笑しさとして、生活にポロッとほころんだのだ。

平等は善にちがいない。私は差別を肯定するほどの感情も論理も持たない。だが、社会全体は道化ることに疲弊しすぎていまいか。もっと素朴に、健気に、自然に笑えたらと願う。洗練されすぎたものよりも、可愛らしいものこそ、愛されるべきことのように思うのだ。

 

2024.1.24

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