生命は世界の暗闇を突き進んでいる[582/1000]

人間が「無力」になることは己の神を殺すことである。われわれ人間は、時間と空間をもった焔として現象界に投げ込まれ、死に向かっていく生命としての「力」を授かった。ゆえに、力を賛美して生きることは、神を讃えることである。無力に放擲されることは、神への冒涜である。

私が物質主義を嫌悪するのは、便利や快適が人間を無力にするものであると、経験上感じるからである。かつてスマホのない時代、異国を旅するとは、身一つで暗闇に突入することであった。現代は、同じ日本を旅するにしても、スマホを手放していくには不安を感じるほど非力になっている。

 

旅の在り方は変わった。身一つで暗黒に突入するとき、世界は神秘に包まれている。ゆえに、信仰的であった。信仰のない旅は旅ではない。今は、情報が洗練されすぎて、旅は水平的になりつつある。宿を取るにも、スマホで検索する。地図を見るにも、google mapに従う。

調べた宿には「星」がついている。店主の感じがいいとか、清潔であるとか、駅から近いとか、こうした評価によって、われわれは先入観と安心を獲得し、未知と危険に遭遇する体験を失う。不潔な宿で苦労したり、態度の悪い店主と喧嘩するような機会は必然と避けられるのである。

要するに旅が「安全第一」になっていく。もちろん、あえて危険に身を晒す必要はない。身は守るべきである。だが、身を捧げる覚悟がなければ、いい旅などできるはずがない。物質に洗練されすぎると、この覚悟が失われていく。己の神よりも、もっと俗物的なものがもてはやされるようになる。

 

世界は「科学」によって明るみに照らされた。だが、われわれは「科学」という小さな明かりの下にいるだけであって、明かりの外側に無限に広がる暗闇を忘れた錯覚におちいっている。科学の明かりを世界のすべてだと信じることを、科学信仰という。私はこの明かりよりも外側の暗闇を見つめたいと願うのである。明かりを照らされた下を旅するのではなく、小さな提灯をぶらさげながら、暗闇を手さぐりに旅したいと願うのである。

 

沢木耕太郎さんの深夜特急を読んでいると、全身が興奮する。旅とはこういうものだよなと、旅人の血が騒いでくる。半世紀も前の安全な地盤が整わない旅では、すべてがアナログで「力」によって切り拓かれていく。小さな生命が、世界の暗闇を突き進んでいく感覚こそ、生の本質であるように思う。

こうした暗闇のなかで、偶然に他の生命と巡り合うから、出会いに感情が湧くのである。人間であるかぎり、暗闇を手さぐりで進んでいく感覚を忘れちゃならんだろう。

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