言葉の発せられる原理に注目したい[581/1000]

厳格な決めごとにも、一つ例外を設けてしまえば、みるみる崩れていってしまう。1000日間毎日つづけることと、適当に休みを取りながら、1000日間つづけることとでは、私には前者のほうが格段に現実的に思える。

なぜなら、前者には形式とリズムがあり、後者には放縦と気分があるからだ。「今日くらいはいいじゃないか」「今日は特別だ」という特例一つから、形式に「怠惰」の空気が流れ込み、少しずつ廃れ、終いにはボロボロの残骸となって自然消滅してしまう。これは、誰しも一度は経験したことがあるように思われる。

 

「気分」や「気持ち」に権利をもたせれば、果てには「退廃」がある。ゆえに、神や信仰など、自分より優れた存在に、自分を委ねるのだ。当然、気持ちがついてこない日もある。投げ出したくなる。だが、そのための信仰である。ずっと調子がよければ、この世のすべての人が「1000日の栄光」を手にする。そうでないから、自分の気持ちを天に委ね、己を制して何としても食らいついていくのだ。

“自分の気持ちを大切に”とは今日のお決まり事のような言葉であるが、自分を大切にするために、自分の介入を許さないという選択肢もあるのである。

 

私にはひとつの怖れがあった。旅を続けていくにしたがって、それはしだいに大きくなっていった。その怖れとは、言葉にすれば、自分はいま旅という長いトンネルに入ってしまっているのではないか、そしてそのトンネルをいつまでも抜けきることができないのではないか、というものだった。数ヵ月のつもりの旅の予定が、半年になり、一年にもなろうとしていた。あるいは二年になるのか、三年になるか、この先どれほどかかるか自分自身でもわからなくなっていた。やがて終わったとしても、旅という名のトンネルの向こうにあるものと、果たしてうまく折り合うことができるかどうか自信がなかった。旅の日々の空虚な生活に比べればその向こうにあるものがあるかに真っ当なものであることはよくわかっていた。だが、私は、もう、それらのものと折り合うことが不可能になっているのではないだろうか。

沢木耕太郎「深夜特急4」

 

私もまた、若かりし沢木さんと同じ怖れを抱えている。正業もなく、浮世離れした隠遁生活に親しんで、「真っ当なもの」と折り合うことが不可能になっているのではないか、という怖れだ。

 

昨年末、隠遁生活を切り上げて、実家に帰って来た。だが、これからどうやっていこうか決断を下せないまま、10日の滞在予定が20日と増え、あと3日で1ヵ月いることになる。

実はこれは、隠遁中に最も影響を受けた、トーマスマンの「魔の山」に登場する主人公、ハンス・カストルプ青年にも起こったことであった。ハンス・カストルプ青年は、高原のサナトリウムに、はじめは2週間の滞在予定であったが、1ヵ月に増え、3ヵ月に増え、1年に増え、3年に増え、しまいには7年近く滞在することになった。

ハンス青年が、7年の高原生活を切り上げるきっかけになったのは、第一次世界大戦の勃発だった。生活を脅かすような天変地異が起きないかぎり、だらだらと沼に沈み込んで、抜け出すきっかけを失ってしまうのが、退廃の怖ろしさである。

 

退廃していても、いいじゃない。自由に生きたらいいじゃない。生きていたら、いいじゃない。という声もあろう。だが、言葉には発する人間の立場がものをいう。たとえば、病気で死ぬ運命にある人や、不運に自由を奪われた人であれば、すべての生き方を肯定する言葉に意味は芽生える。だが、若さも健康もある人間はそうではない。若さも健康もある人間は、「真っ当なもの」に向かっていくための言葉を発するべきではあるまいか。

 

要するに、言葉の発せられる原理に注目したいのである。同じ言葉を発するにしても、「怠惰」を理由に発された言葉には、何の価値もなかろう。金儲けのためや、人気取りのために吐かれる言葉も、どんなにいい言葉であっても、内実は空虚だ。

われわれを勇気づける言葉には、いつも力や勇気がある。病人は、闘病の立場から、言葉を発する。健康な人間は、健康の立場から言葉を発する。当然、われわれ全員、己の置かれている立場は多種多様だ。だからこそ、己の立場のなかで、最大限「力」のための言葉を発することに、勇気ある多様な言葉が生まれていくのである。人の言葉を真似せずとも、各々の置かれる立場で「がんばれ」を紡ぎ出せばいいのである。

己の力を今日という大地に振り絞れ。

 

2024.1.22

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