★ソローの森の生活に憧れて③[611/1000]

朝な朝なは自然そのものと同じく単純で、そしておそらく無垢である。わたしの生活をはじめる愉快な招待であった。

「森の生活」ソロー

素朴な慣習は人間に力を要求し、人間に力を与える。われわれ人間は、世界にたえず要求され、要求に応えることで力を獲得する。要求に屈するとき、われわれは無力を獲得する。力を選ぶか、無力を選ぶか。つまり、要求に応えられるかどうかが、名誉と屈辱の分かれ道である。力は雪だるまのように転がるほどに大きくなるものだ。力の玉を転がせば、力の雪だるまはどんどん膨れ上がる。無力の玉を転がせば、力は奪われていく一方だ。

これは、私が森の生活で獲得した主要哲学である。なぜ、創造主であるデミウルゴスが人間をつくったかという形而上学的な答えも私はここに見つける。何度も何度も、繰り返し述べさせてもらうことをお赦しいただきたい。今日ここで再度取り上げさせてもらうのも、この哲学を貫徹しているソローの言葉に嬉しくなったからだ。

 

「朝の新鮮な空気を、コーヒーの香りで台無しにすることはしない」

私は、”素朴”の上位を”純素朴”とよぶことにした。素朴は古典的な慣習をさすが、純素朴は人間の手がおよばない、創造主がつくったままの自然、神の領域をさす。コーヒーを飲むことや、読書をすることは、古典的慣習に分類されるが、朝の新鮮な空気を味わうことや、自然に五感を傾けること、天に祈りを捧げることは純素朴な慣習である。

無論、素朴な慣習も、純素朴な慣習も、ちゃんと味わい尽くすためには力がいる。現代に充満する、洗練されすぎた慣習を前にすれば、どちらも気高いものだ。朝に新鮮な空気に包まれながら、コーヒーを飲むことは、断じて悪癖ではないが、コーヒーに頼らずとも朝の新鮮な空気を十分に味わいつくすことができるのならそれに越したことはない。

純素朴に生きる存在としての象徴が、野生動物である。「自然淘汰」や「弱肉強食」とは、いわば力の原理のことである。彼らは純素朴の世界に生き、力の道を歩んだもの、雪だるまを大きくしたものが雄々しく頂点に立つ。ゆえに、猛獣も猛禽は雄々しい。文明の力を獲得し、食物連鎖の頂点に立った人間もまた、雄々しいものだったのだ。

 

善く読むこと―ほんとうの書物をほんとうの精神で読むこと―はけだかい仕事であり、今日の慣習がたっとぶいかなる課業よりも読者の骨折りを要求するものである。

「森の生活」ソロー

ほんとうの書物を、ほんとうの精神で読むこと。これはどれほど大事で、どれほど難しいだろう。賢人に尋ねれば、どれがほんとうの書物かは分かるようになる。だが、現世の人間の首を絞めるのが、ほんとうの精神をもつことである。ほんとうの精神を持たなければ、書物の真髄に触れることはできないのである。

私自身、「ほんとうの精神」を言葉にできるような優れた人間ではない。だが、森で素朴に生活していたころは、俗塵に堕落していた頃よりも、書物の魂に触れられていた感覚があった。ゲーテ、トーマスマン、ニーチェ、ランボオに出会えたからこそ、隠遁生活は素晴らしいものになった。そのときに垣間見えた感覚を精一杯言葉にしてみるのなら、ほんとうの精神とは己が火になることである。自己が火であるという自覚が深まるほど、書物の魂と一体になれる。

自己が火になるためにはどうすればよいか。それは、ここでも散々述べている。洗練された物質を離れ、素朴と純素朴に生きることだ。力の原理で生きることだ。これが魂の修行である。いかに火になれるか。いかに火を燃え上がらせられるか。この哲学が生涯貫かれることを願っている。

 

2024.2.21

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です