ソローの森の生活に憧れて②[610/1000]

ついでにわたしは、カーテンの費用は全然いらないことをいっておこう。わたしは覗きこまれるものとしては太陽と月とよりほかなく、かれらが覗きこむのはむしろわたしが歓迎したからである。

「森の生活」ソロー

草枕月記の熱心な読者なら、私が森に手がけた小屋の写真ないし動画を一度は見たことがあるだろう。アクリル板をつかった大きな窓が正面と左右にそれぞれ備えつけられており、内側からは木々の様子や、小鳥たちの活動風景がよく見える。

窓にカーテンを備えつけないことにしたのは、冒頭で紹介したソローの言葉に感化されたからであった。何も人の家のカーテンの有無の事情など、どうでもいいと思われる方もいるだろう。だが、こうしたどうでもいいことの積み重ねで、案外金はかかっているものだ。たとえば、賃貸に住む人間は、引っ越しのたびに窓の大きさが異なれば、その都度カーテンを新調しなければならない。テーブルやイス、寝具、敷物、ゴミ箱など、「新生活」のたびに物が一新されると、その都度、数万円のまとまった金がかかるものである。

 

ソローは費用面のことを述べているが、私は後半の「わたしを覗くものは、太陽と月しかない。」の部分にも魅了された。カーテンのない森小屋ではじめて寝た晩は、窓の向こう側に広がる完全な闇に心細くなったが、これはすぐに慣れた。冬に木の葉が枯れ落ちて、月光が寝台に注がれるようになると、私ははじめてソローの言葉のもう一つの意味が分かった気がした。

人間として住みながら、生命として森に棲むということ。「住」とは人の主と書くが、「棲」は木の妻である。つまり、人工的な建造物では人間が主人であるが、森には人間よりも大きな主人がいて(木の精霊と呼んでもいい)、この精霊を中心に動植物が生息するのである。

人工的な密室と天井に生きながら、太陽と月の下に生きるということ、それが実現したのが森の生活であった。

 

月はわたしのミルクを酸くせず肉を腐らせもしないし、太陽はわたしの家具をいためもせず敷物を褪せさせもしない―もし彼が時に少々暑すぎる友人ならば、自然が供給する何かのカーテンの後ろに引っ込む方が、家計簿にひと項目だけでも加えるよりずっと経済であることをわたしは知っている。

「森の生活」ソロー

「自然のカーテン」とソローは言うが、私は「自然の暖炉」に救われた。

冬場は、火を焚く薪が不足してくると心細くなる。だが、太陽を浴びるのにお金はかからず、薪もいっさい必要としない。地球から1億5000万kmも離れた太陽の核融合熱を、壮大な真空を隔てて、だれでも地上で享受できる。

私は、太陽を浴びながら本を読むことが日課であった。暑くなったら、「木の葉のカーテン」に隠れ体温を調節する。森全体がカーテンで日陰になると、今度は冷気によって食材庫ともなる。余った木材を組んで暗室をつくれば、味噌や醤油、野菜を保管できるし、冬場であれば、肉も保存できる。

つまるところ、太陽と月と森を友にする生活を、私は心の底から愛したのである。

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