純粋な一点を目指して[149/1000]

信じるものを得れば、彷徨える魂に一筋の進むべき道が照らされるが、死まで辿り着けるかは信仰の純粋さによる。

信じる対象がなければ冒険の始まりすらない。信仰によって道が生じる。苦難に見舞われても信じ続け、突き抜けることに人間の生があるのではないか。

 

かつては殉教や殉死を遂げられるような人間がいた。明治の軍人である乃木希典も、明治天皇の崩御に殉死した武士道に生きた人間だった。「同じ人間誰に劣り申すや」と葉隠は言うが、同じ人間だと思えないくらい魂の純粋で気高さを感じている。

 

何も信じないことは楽なことだと感じる。何かを信じれば、信じることに付随する一切の苦しみも引き受けなければならない。信じることは対象に自分の身を捧げることであり、それはつまり、信じる心が純粋の一点を極めたとき「死」を迎えるということ。(この死は概念的なもので、必ずしも肉体的に死ぬことではない。)

これは自己の命を、自分だけのものから、信じるものに同化させていく過程をいう。武士道なら、武士道の魂と一体となって生きていく。自分の命を武士道に注ぎ込む。だから信じる心が頂点に達したとき、自分は死に、武士道と同一となって生きる。これが、日本刀の上で生きるような、生と死の上に立って生きるということではないか。

何かを信じるとは、対象の魂と一体になるということ。それはつまり自分として生きながら、同時にキリストとして、釈迦として、武士道として生きることなのだと思う。

 

どれほど純粋に信じられるかに人間の強さがあらわれる気がするが、今はそもそも何を信じたらいいのかすら分からない時代になっている。

 

私もまた現代人の苦悩に苛まれる。

歴史の魂と一体となって生きることが、これ以上ないほど誇らしいことだと感じながらも、物質主義に汚染された自分という人間は、いっさいの「死」を拒絶しようとする。

しかし考えれば考えるほど、これは傲慢だと分かる。歴史の魂と一体となって生きることは、すなわち父や母をはじめとして、祖父母やそれ以前に生きてきた先祖を尊敬し、日本文化の上に生きるということだ。

父と母、祖父母、その先の命の重みを感じれば「歴史の魂に生かさせていただく」という心がけを持つことの方が当然にも思うのだ。

 

そこまで分かっても、自分の一身のすべてを奉げることは難しい。

今日書いていて肉体的な死ではない、死ぬという感覚がうっすら分かった気がする。肉体は怯えていたが、偉人たちの魂や日本の文化と同化し生きることの崇高さに満ちていた。

 

精神修養 #59 (2h/126h)

心の落ち着かない瞑想だった。月曜の朝から絶え間なく生じる欲望の多さ。

欲望が多くとも堕落しないのは垂直方向のエネルギーが拮抗しているからだと感じた。垂直より水平のエネルギーが勝れば、瞑想は中断され、生活が欲望に支配されることは容易に想像できる。何気ないこの瞬間も、縦と横のエネルギーが交差している。

欲望と切り離された器としての自己を静観しながら、内に宿った自我の存在を認めているような時間だった。

 

[夕の瞑想]

絶対に動かないという信念のもと座禅を組むが、足に激痛が起こる。しばらく耐えていたものの、ヒートアップする痛みにこれ以上は無理だと瞑想を中断した。

分かったことの1つ目は、痛みにギブアップしている間は、肉体が第一となっている証拠だということ。すなわち自分の命が一番大事で、自分が「神」になっているということ。

分かったこと2つ目は、痛みに耐えうる大きさの分だけしか、人を愛することはできないということ。これはまだ仮説であるが、忍耐の限界の先からは、自分が神になる=自分のためにしか生きられなくなるのだから、忍耐を超えていかなければ、自分の外側にあるもののために自分を犠牲にすることはできない。

今日はまるで拷問を受けているような瞑想となったが、忍耐によって培うものがあると私は信じる。それに見方によっては人生も拷問のようなものかもしれない。そう書くとなんとも悲痛な感情に支配されるが安心したい。厳しさと同じ大きさの分だけ愛に生きられるのだと信じる。

【0円で生きていける拠点づくり】

森の中に瞑想小屋を建て、家を開放するのが直近にやりたいことです。

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