人生の要求に応えるための感情力の補強手段[548/1000]

情熱とは、人生を体験のためではなく、人生を人生のために生きることである。これは、トーマスマン「魔の山」の中で、主人公の恋の相手である、クラウディア・ショーシャ婦人の発した考えだ。

 

この「情熱」というものと、連日書き連ねている、「人生の要求」に必要とされる「感情の力」は親戚のようなものだろう。なぜなら、人生の要求に対して、人生の等身大のまま応えることができれば、行為は人生を人生のために捧げることになるからだ。逆に、感情の力が衰え、人生の要求に応えることができなくなるとき、人生からの要求はどんどん小さくなり、行為はあくまで縮小化された体験に間に合わせるだけで精一杯となるのである。

若者が、中高年に比べて情熱があるのは、若い生命体の感情力がなす業であり、その感情力の高さゆえに、人生からの等身大の要求に応えることができるからだ。いっぽう、年齢を重ねていくごとに、老いとともに感情が弱まると、人生は体験的、換言すれば「生活的」となり、その感情力の低下ゆえに、生活体験にも心が動かなくなるのである。

 

感情の衰えに対し、魔の山では、「古典的贈物」を感情の補強手段として用いている。分かりやすく言えば、「素朴な享楽をもちいて元気になれ」ということだ。現象界の創造主であるデミウルゴスが、つくったこの世界の景色を楽しむことは、純素朴な「神からの贈物」であるし、古典的慣習である、読書、酒やコーヒーなどの素朴な享楽も、感情力補強の手段としては有効だ。

私自身、この森の生活は、素朴なものに満ちており、たしかに私は今、感情が強化されていることを実感するのである。森を愉しむことに、派手さはない。興奮するような大事件も起きない。それゆえ、感情を集中しなければ、味わうことができず、その過程において感情は鍛錬されていくのである。

 

また、情熱の生き方は、エゴイズムの対にあると言える。なぜなら、自分を投げ出すためには、自分を大切にするわけにはいかないからだ。ゆえに、生命燃焼においてエネルギーを善とし、無気力を悪と考えることに類似して、「自分を破滅させるもの」「自分を傷つけるもの」「自分を苦しめること」を道徳的だとするショーシャ婦人の考え方は、ここでも一貫性をもつ。

なかなか今日では受け入れられ難い、厳しい道徳観であることは間違いない。だが、私自身、齢30を前にして、老いによる感情力の衰えにより、情熱を失う屈辱に抗いたいゆえ、破滅できるだけの力を持ちたいと願う人間のひとりである。

 

2023.12.20

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