わたしのために命を失う者は、かえってそれを得る[233/1000]

わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。

新約聖書

 

初めて聖書を読んだとき、想像と大分違って驚いた。それまで、キリストは万人に無償の愛を与えるから偉大な存在だと思っていた。しかし、キリストは大きな慈悲を与える代わりに、わたしのために命を投げ捨てよと言った。わたしのために命を捨てられず、自分のためにしか生きられない人間は、わたしにふさわしくないとはっきり言い切った。キリストは、無償の愛を与えるのではなく、有償の愛を求めた。偉大な慈悲を与える代わりに、命を奉げるという純粋の極地を求めた。

自分は楽をして愛だけ授かろうなどとは、現代の自己中心性から生まれそうな都合の良い考え方であるが、むろんそのような生易しいものではなかった。自らを犠牲する厳しさの中にしか愛はない。キリストが血を流すから、信じる者も血を流す。その純粋が殉教である。

 

ヴィクトリア女王が招いたインドからの賓客はイギリスの作法を知らず、晩餐の際に誤って指を洗うためのフィンガーボールの水を飲んでしまった。それを見た周りの貴族は笑ったが、ヴィクトリア女王もすぐに自分のフィンガーボールの水を飲み干すのを見ると、貴族たちは笑うのをやめた。

馬を懇切丁寧に世話する乃木希典に、どうしてそこまで大切に世話をするのですか?と尋ねると、馬は口がきけないから、口がきける人間はその分大切にしてやらねばならんと答えたという。

 

これらの話も、同じ魂が貫いているように感じる。相手が誤って血を流したのなら、自分も血を流す。ヴィクトリア女王の行動は、まるで自分の腹に刃を突き立てる武士のようではないか。フィンガーボールの水を飲むことは品性に欠けても、それが法の意思のもとで、勇気として断行される場合は、尊厳ある行いとなる。

乃木希典の話も同じである。相手と同じ量の血を流せないのなら、その分労をかけて血を流す。同じ分だけ苦しむ。乃木希典の慈しみは人間を超えて、動物にまで及んだ。

同じだけの血を流し、同じ痛みを分かつことには修身を感じる。苦楽を共にする関係が代えがたいことは私自身も体験するが、苦楽という言葉の順序のとおり、必ず苦が先にこなければならず、楽は自ずとやってくるものだろう。

共に苦しみ、共に血を流してきた偉人たちの魂がここにある。それを感じ、同じように血を流せるようこの身に修めよう。

 

精神修養 #142 (2h/292h) ・#143 (2h/294h)

精神修養とは、心を本来の積極的な形にすることが1つの目的で、心にとっての水行や乾布摩擦のようなものなのだと思う。寒いので厚着で寝るが、厚着で過ごす時間が長いと、身体の生命機能が低下する感覚がある。今朝の瞑想も寒くてどうしようもなかったが、自分の直感を信じて、上裸となり乾布摩擦を行う。直感どおり、生命機能は活性化するのを感じはじめ、薄着でも身体は前よりも温かいと感じる。この肉体が持つ本来の積極状態を、心においても保つことが精神修養の一環であろう。

 

自分の外側のすぐそこに、自然の法があるのを体験した。自分の内側ではなく、外側である。魂があることを体験できた。まだうまく言葉にできない。自己中心から生まれる感謝ではなく、自然法にある恩と言うのが、今の精一杯の表現となる。自分の外側にあるものを、身に修めることが戦前の教育あった「修身」というものではないのだろうか。

 

理性心も本能心も自分の内側にあるものだ。自分の内側にあるものに、本当の価値はないと悟ると、途端に雑念が消えた。この時初めて、理性心と本能心に価値があると信じているから、雑念は生じるのだと悟った。価値がないと悟ると、雑念は消える。

一瞬だけの体験で、再現性があるかは分からないが、一つの記録として書き留めておきたい。理性心も本能心も、現世的な価値に過ぎないのだろう。

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