ほんとうに怖いことは、到達をあきらめて虚無の絶望に浸ることだけだ。[458/1000]

森の家づくり、大工さんからもらってきたパレットが大活躍している。

先日は、分解したパレットで床を完成させたが、今度は別のパレットを分解して寝台もつくった。ベッド兼イスとして使えるように、足となる広葉樹の幹は、座ったときにいい感じになる高さに調整した。しかし、いざできあがると、フレームのない寝台は、病院の手術台のように殺風景だったので、急きょ予定を変更し、ソファとしても使えるように側面に背もたれをつけることにした。杉板を張りつけるだけではつまらないので、装飾もかねて直径30cmほどの丸太の輪切りを並べてはっていく。ここからはまだ、想像の世界であるが、かなりすばらしい出来栄えになるだろうと今から確信しており、完成が楽しみでしかたない。

この2カ月弱のあいだに、家への愛着はだんだんと深まり、今では掘っ立て小屋式にしたことを少し後悔しているくらいだ。基礎がなく、石の土台の代わりに、柱を地中に埋めているだけなので、数年、長くて10年のうちに柱は腐ってしまう。こんなにも愛着がわくのなら、もっと長く住めるように、せめて土台に石を埋めるんだったと思ってしまうが、そんなことを言ってももう手遅れである。

 

空き家が増えつづける今日、自分が死ぬよりも、家が先に死ぬことは、災害がおきないかぎりは稀である。先に書いた理由で、私の場合は、おそらく家が先に死ぬ。まだ完成もしてもいないのに、すでに終わりの姿を想像して悲しむのはバカとしかいえないが、私にとって森の家づくりは、夢を地上に展開することだったので、家が死ぬことは、地上に展開された夢が、形の制約を逃れて、再び宇宙へ還ることでもあるなと思う。そのときは、柱を薪にして月夜にのぼる火を眺めて、次の夢を掴もう。

「自分の仮に享けた人間の肉体でそこに到達できなくても、どうしてそこへ到達できない筈があろうか」と三島由紀夫はいう。人間の肉体でそこに到達できなくても、肉体にできることは、そこに到達しようと、ひたすら歩みつづけることだけである。けして歩みをとめず、ひたすら歩みつづける心持さえあれば、つくったものがなくなろうと、怖いことはなにもない。ほんとうに怖いのは、自分が歩みをやめること、そこへ到達することをあきらめて、虚無の絶望に浸ることだけである。とにかく前をみつづけること。憧れつづけること。そうあれば、怖れることは何もないのである。

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