自己は肉体ではなく精神である。[606/1000]

自己を精神として意識していないというちょうどそのことが絶望であり無精神性である、―こういう状態はときとして完全な無気力の状態でもあろうし或いはまた単なる酔生夢死の生活ないしはまたかえって精力の倍加された生活であるかもしれない、とにかくその秘密は何といっても絶望である。この最後の場合には絶望者の状態はちょうど肺疾患者の状態に似ている、―病気が最も危険な状態にあるちょうどそのときに、彼は一番気分が好いのであり、自分にはこの上なく健康のように思われ、おそらくは他人にもまた健康で輝いているように見えるのである。

キルケゴール「死に至る病」

 

物質主義を簡単に言えば、自己を肉体と考えることである。物や金をはじめとして、物質に第一の価値を見出す生き方ともいえる。物質主義に毒されると、われわれは自己を肉体と考える。肉体が満たされることが幸福となるが、肉体を基盤とする以上、幸福は排他的なものである。

 

幸福がエゴイズムであることを悟られないために、今日は次の考え方が流行した。「自分を満たせば、まわりの人間も満たされる。」これは、物質的には正しい。よくコップの水に例えられるが、自分の心が満たされれば、こぼれる分の水で誰かに優しくしてやれる。最もらしい理論だが、同時にわれわれは水面下で恐怖を抱く。なぜなら、自分の心が満たされなければ、まわりの人間はどうでもよいというアンチテーゼを同時に受け入れることになるからである。

 

ここに違和感をおぼえる人間は、今日の幸福に欺瞞をみつける。友情も愛情も、自己充足を前提とするものならば、条件次第では裏切りが発生する。そんなものは、友情や愛情と呼ぶにふさわしいのだろうか。条件によって揺らいでしまう関係に、絶対的な信頼感というものが得難くなるのである。

 

自己が精神であることを意識すると、今度は肉体を持つことが不自由になる。肉体によってわれわれは分け隔てられ、孤独の苦しみを味わう。腹が減ったときに手元にパンが一つしかなければ、生きるために奪い合わなければならない。もちろん、精神愛に満ちた母子の間では、母は餓死してでも、自分のパンを子にに差し出す。自己が精神であると意識すればこそ、かえって愛する人の肉体を生かさなければならなくなる。精神が自己を捧げるうちに、友情や愛情はあるといえる。

 

神は一つで全能であった。なぜ神は現象界をつくったか。時空を生み、物質を運動させ、個を生み、全体を作った。肉体を持ったことにより、人間は孤独となり、絶望の苦しみを味わう。

この問いは以前にも、一つの見解を出したことがあった。神は感じるために人間を創った、と。だが今日は、われわれは分かち合う歓びを得るために、分け隔てられたのだと希望的な考え方をしてみたい。

餓死しかけているときに、手元にパンが一つしかなければ、私は友に譲れる人間となりたい。だが、もしパンを手でちぎり、二つに分けることができるなら、二つに分け合って、共に飢えをしのぎたい。それが精神のなすことであるかぎり、それも友情とみなされようから。

 

2024.2.16

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