「とむの家」を終わりにする。「guest house 葉隠(仮名)」に向けて。[237/1000]

本日、とむの家(諏訪湖)の訪客を最後に、とむの家を終えることにした。「※とむの家について

2019年11月から始めたとむの家には、10数名の方が来てくださったが、毎度粗末なおもてなししかできなかった。それでも訪客は皆、満足したように帰っていった。森の中で寝ることも、嵐の中で寝ることも、雪の上で寝ることも、愉しんでくれるような、心ある方ばかりであった。

 

訪客を帰した後、自責の念に駆られないことは、一度たりともない。現世の人間と交流する自分は嫌いである。綺麗な時間になりすぎてしまう自分は嫌いである。あえて荒波を起こしたいわけではないが…..いや、あえて荒波を起こすことを魂は焦がれていた。「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ」というキリストの言葉のとおり、真の交流にはいつも厳しさが付きまとうと信じていた。剣をもたらせるような人間になりたくも、力不足であった。

 

人を受け入れることの価値が妄信されている。今日はっきり分かったが、私は人を受け入れることが絶対善だと信じていた、が違った。

あのキリストですら、「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。」と言ったのだ。すべての人間を無償に受け入れたのではない。キリストに命を奉げた人間のみが本当の赦しを得た。

 

現代の肉体至上主義においてのキリスト教は、この赦しの部分だけが残っている。今日の人を受容することの価値にも、同じ欠如を感じる。つまり、本来人を受容することは、拒絶と要求の上に成り立つものではないだろうか。人間関係において、相手を拒絶し、要求し、それに応える上に、初めて本当の受容が生まれるように思う。

 

神がいる時代は、神が我々人間を拒絶した。日本の場合は武士道の魂である。同じ魂に生きたかつての人間は、互いに干渉しやすかったように思う。例えば、近所の子供が悪さをすれば、同じ魂のもと、叱りつけることができた。先生に叱られたら、悪いことだと、親はさらに子を叱りつけた。しかし、魂が失われた今日は、互いに干渉しづらい世になった。我が家の教育がありますから、と言って先生を非難する親もいるくらいだ。

信仰を失った代わりに、干渉の自由も失った。信仰のない干渉は水平的であり、これは価値観の押しつけ合いにしかならない。だから、信仰のない今日は、相手を受け入れることの価値が善となった。

 

この現代道徳によって、人への干渉は難しくなっている。現世の価値観と、崇高な魂が混同している。場合によっては魂の尊厳は、現代道徳によって踏みにじられることもある。かつて、宗教が戦争に発展したように、自分の命よりも大切な魂が否定されることは、この上ない屈辱であり、命を懸けて戦うに値する正義となる。

今日、人に干渉することは、同じように恥辱を受ける覚悟がいる。恥辱は死ぬことよりも苦しいかもしれない。この苦しみを恐れている。どう人と向き合うべきか問いつづけている。

 

今日の訪客をもって、とむの家は終わりにする。

上記に綴ったことは、とむの家を終わりにすることとは一切関係なく、単に”もらとりずむ”を終えて”草枕月記”を始めたのと同じ理由である。これまでの活動を一区切りしたい。

 

とむの家の代わりに、近い将来、森の中に小屋を建てるつもりでいる。「guest house 葉隠(仮名)」と題そう。テーマは、魂の救済である。同じ現世を生きる人間と、魂の価値について考え、探求できるような場所にしたい。寒い場所であるが、薪ストーブの火を前に、魂について語ろうではないか。

 

この場をお借りして、これまで”とむの家”に訪問してくださったすべての方々に、お礼を申し上げたい。粗末な接待しかできず、自身の未熟さに悔いると申し上げたが、共に自然の中で飯を食えた体験は、幸せなものであった。どれも同じものはなく、私の心に深く刻まれている。またいつか、お会いできますように。お元気で!

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