ひとりぼっちじゃないんだよ。大きなものと繋がっているんだよ。[221/1000]

今日一日、怒らず恐れず悲しまず、正直親切愉快に、力と勇気と信念とをもって、自己の人生に対する責務を果たし、恒に平和と愛とを失わざる、立派な人間として生きることを、厳かに誓います。

死からやってきて死に還っていく。壮大な人間達の宿命の上に生きている。動かないものの上で動いている。そうしていつか同じように動けなくなる。つまり宿命からやってきて宿命に還っていく。大きなところからやってきて、大きなところへ還っていく。形のないものからやってきて、形のないものへ還っていく。その僅かな狭間を人間として動き回っている。

今日でちょうど人間を生きて29年を迎えた。29年前は動かない存在であった。あと何年生きられるか分からないが、いずれまた動かない存在になる。動かない存在となる前に、自分の役目を自覚して命を燃やしたい。

 

役目は、大きな宿命の上に生かされていることを知って、宿命との関係性の中に恩返しをすることにあると思っている。

自分勝手に生きてきた。利己的に生きてきた。日本のため、子供のためと教員になってみたものの、関係性のないところでの一方通行の気持ちは、どこまでいっても自己満足だった。一方通行だから、諦めようと思えば諦めることも許された。日本のため子供のためという気持ちも、日本や子供との関係性の中から生まれた気持ちではないという点で、「弓を失った矢」のようなものだった。

 

現代の迷いの多くは、弓を失った矢のようなものだと思う。矢は個を指し、弓は全体を指す。矢は弓がなくて、自由だと喜ぶだろうか。決してそんなことはない。どんなに矢を研ぎ澄ましても、矢を引く弓がなければ、遠くに飛ぶことさえできない。しかし、これを自由だと思い込んで喜んでいるのが現代人であって、かつての私でもあった。

矢を磨くことが個人の運命であるように捉えられるが、弓によって遠くに解き放たれることは宿命を自覚せずにはありえない。自分が生かされている宿命を深く自覚して、関係性の中に恩を返そうと生まれる気持ちから、弓と矢は一体となって人の生は垂直方向に伸びていくのだと思う。

 

例え話はこれくらいに。

今の日本を見て「ああ日本はかっこいいな。日本人として生きられて誇らしいな」と思える人間はどれくらいいるだろう。愛国心を持てば、右寄りだと言われて得をしない世の中である。日本というものが水平的に捉えられるようになって、国家から切り離された個人はひとりぼっちになった。

垂直性を失えば、日本人としての意味も薄れていく。親切だとか、礼儀正しいとか、気を遣えるとか、表面的な特徴ばかりが日本人の民族性であるかのように語られて、かつての日本人の魂の集積である文化は忘れ去られる。英語を話せて外国人とも会話をできることが国際人であるかのように思われるが、弓のない矢は、どこまでいっても矢に過ぎない。

 

武士道や葉隠をはじめとして、日本の偉人たちの魂に触れたとき、こんなすごい人間が日本にはいたのかと感動した。歴史を知って昔の日本人やかつての文化に触れると、こんなに美しい国に、同じ日本人として生まれたことを初めて誇りに思えた。繊細な心を持つ人間は日本には多いはずである。この繊細な心からあの美しい恋の歌は生まれた。

かつての日本人たちの魂に誇りを感じていると、日本の文化は絶対に失っちゃいけないと強く思う。そうして魂との集積の末に今の自分を見つけると、この肉体を使って何をするべきかという現世の使命が見えてくるような気がした。日本というものは、今ここに目に見える現世に限ったものではない。昔の日本人の魂の集積の末に今の日本がある。なぜ武士道が失われたこの時代に生まれたのか。なぜ日本人として生まれたのか。なぜこの家系に生まれたのか。大きな大きな気高くて尊い魂を思えば、弓は生まれてくるものなんじゃないかな。

 

精神修養 #131 (2h/270h)

山に小屋を建てることが20代の集大成になる気がする。旅をして、引きこもって、鬱になって、心身の調子をよく崩した20代であった。家を持たず放浪しっぱしの20代であった。この苦悩を、一つの場所に一つの形として残してみたい。行き場を失って彷徨いつづけていた魂をここに還してやりたい。

かつての自分が必要としていた場所になると良い。同じような人間の助けになる場所になると良い。畏れ多い言い方になるが、魂の地上的展開となれば良い。

 

[夕の瞑想]

悲しみも怒りも恐れも、内側から生じる。世界の波が大きいほど、強い衝撃が心にぶつかって、肉体心と理性心は波紋を生むように、あらゆる言葉を生じさせる。それが散らばった状態を「雑念が多い」という。雑念が多くなるのは、世界の衝撃をいなしきれず、ダイレクトに心にぶつかった時である。

中丹田への気が充足すると、雑念がなくなる。下丹田に集中し、精を充実させてから、中丹田に気を流すと雑念も静かになる。波紋を整える力が、気にはあるということだろうか。

雑念が散らばった状態は、恐怖や怒りや悲しみを制御しきれていない状態といえる。気を集中させて静寂を得る。

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